カテゴリ:よもやま話
◇ 7月11日(土曜日) 旧五月十九日 丁巳(ひのと み) 大安
昨日は四万六千日で観音様のほおずき市の日だったが、もう一つ鴎外忌でもあった。鴎外忌は彼の墓のある三鷹の禅林寺で毎年営まれているが、僕自身はまだ行ったことはない。彼の墓は元々向島の弘福寺にあったのが、禅林寺と生地である津和野の永明寺の二寺に、関東大震災の後で改葬されたのだそうだ。 森鴎外(本名林太郎)といえば、わが敬愛する漱石先生(本名金之助)とほぼ同時代の人であり、今はやりのヤネセン(谷中、根津、千駄木)辺りに居を構えていらした事もある。鴎外が長く住んだ家である「観潮楼」は、今は根津の団子坂上に鴎外記念室としてあるが、団子坂といえば漱石の「三四郎」などにも出てくる。坂を下れば不忍通りで、昔は菊人形が有名だった。それに因む菊見煎餅の店は今でもちゃんとある。 団子坂の南側、根津神社の近くには、「千朶山房」つまり漱石の旧居跡もある。この界隈はご両所の作品にも登場するし、ご両所ご自身達も折々に散歩されるところであった。ご両所がたまたま出会うことがあったかどうかは分からない。 鴎外も漱石も、どちらも近代日本文学の巨人で文豪である。そこでこのお二人を相互に適当に引き合いに出しながら鴎外忌に因んだ話を書いてみる。 森鴎外は島根県の津和野で藩の御典医の家に生まれた。誕生日は文久二年(1862年)1月19日。漱石は慶應三年(1867年)1月5日に江戸の早稲田付近の名主の家に生まれたから、鴎外の方が6歳お兄さんと云うことになる。 鴎外が亡くなったのは大正十一年(1922年)の7月9日で、61年の生涯だった。漱石は大正五年(1916年)12月9日が命日だから、享年49歳。鴎外の方が13歳長生きした事になる。 森鴎外の干支は戌、漱石は卯だ。つまり鴎外はイヌ年で漱石はウサギ年。どちらもどうもイメージには合わない。森鴎外が犬で、夏目漱石がウサギなんて・・・ 血液型はご両所のどちらについても知らない。 漱石は大学予備門(今の大学の教養課程に当たる)時代に落第を経験している。東大卒業後は地方の教師から国費で英国留学し、発狂の噂で帰国させられて以来、無冠の反官市井の文学者としての人生を生きた。 東大教授の職を固辞し、文学博士号の授与も断り、首相西園寺公望のパーティ(有名文人との懇親会)への招待に対しても、「時鳥 厠半ばで出かねたり」と、時の権力者に対して如何にもふざけた句を返して断った。ところが硬骨漢としての反権力かといえば、どうもそうではないようだ。兵役に行くのがイヤで、北海道に戸籍を移して兵隊検査に甲種合格するのを避けるという、まぁ今で言えば「良心的兵役拒否者」という面もあった。まぁ弱虫のウサギさんかな? それに対して、鴎外は年齢のサバを詠んで(つまりは今の飛び級で)制限年齢以下で大学に入学し、最年少で本科を卒業した。官僚としても軍医総監まで登りつめ、軍人としての誇りは随分強いものがあったらしい。娘の森茉莉と散歩する時もわざわざ軍服に着替えて出かけ、近所の悪ガキたちが、「やぁ中将だ!凄いすごい!」(軍医総監は中将並み地位であり、当時高級軍人は市民の、特に少年たちの憧れの的だった)と囃すのに御満悦だったそうだ。尤も悪ガキ達が鴎外の襟章が軍医の深緑であるのを見取って、「何だ軍医じゃないか!軍医だ軍医だ。」と言い捨てて走り去ると非常に落込んでしまい、その日一日は口も利かなかったとも云う。 その他の官職も、帝室博物館総長や帝国美術院院長などを歴任した。爵位は無いが、正四位、勲二等、功三級、医学博士、文学博士と勲章や称号は凄い。権力の走狗とは彼にとって酷だが、やはり「イヌ年」の所為かも知れないな。 漱石という号は友人の正岡子規から譲り受けたもので、晋書-孫楚伝の「漱石枕流=石に口を漱ぎ、流れを枕とする」から来ており、要するに負け惜しみの強い変人という意味であるのは有名だ。 対するに鴎外の号は、唐詩選に由来するとか斉藤某にもらったとか判然とはしないが、いずれにしろ「♪カモメが飛んだぁ~♪」程度の軽い意味しかないようである。 漱石は俳号を愚陀仏と称し正岡子規仕込の俳句を生涯多く詠んだが、鴎外は「その後俳句を少しして見たが、かう云ふ向きの句は一つも出来たことがない。何事によらず、自分の出来ない方角のものに感服してゐて、それが出来ずじまひになるのが、性分であるらしい。」と随筆(鴎外全集 第二六巻「俳句と云ふもの」)に書いているから、ご本人は熱心ではなかった様だ。しかし、鴎外忌では句会も催されるという。 明治の知識人として、鴎外も漱石も外国語力は大いに優秀で(尤も当時は、高等教育は全て外国語でないと受けられなかった)、漱石の英語に対して鴎外はフランス語、ドイツ語、オランダ語に通じていた。特に鴎外のドイツ語は、ドイツ人学者と激論に及んで相手を論破するほどだったというから凄まじい。軍医時代の国際会議でもドイツ語で講演して聴講者から喝采を浴びるほどであった。つまり普通日本人が得意な読み書きだけではなく、人前で話す事においても非常に優秀だったことになる。 尚鴎外と漱石のどちらも漢籍に対しても深い素養があったという。漱石の漢詩に至っては中国人が声に出して読んでも音韻がしっかりしており感動するほどだそうだ。 こういう事を知ると、今の日本の高等教育における外国語のレベルは極めて貧困だ。せいぜい売春婦か物乞い程度の外国語を身に付けさせるのがやっとと云うのでは、高等教育としては非常にお寒いんじゃないかと思う。 鴎外は甘いものが大好きで、特に饅頭のお茶漬け(!)が好物だったそうだ。漱石も甘い物好きで、胃弱の癖にジャムをやたらと舐めたそうだし、修善寺で大病を患った時にも、やたらとアイスクリームを欲しがったそうだ。 ・・・それにしても饅頭のお茶漬けとは!・・・ちょっと勘弁願いたいものだ。 鴎外は軍医として様々な病に接する事が多かった所為か、非常な潔癖症で、生ものは食べなかったそうだ。その癖風呂嫌いは有名で、本当に潔癖症だかなんだか分からない。 鴎外は文学上では理想や理念を描くべきとして理想主義を掲げ、坪内逍遥などの記実主義と対立した。漱石の文学は島崎藤村や田山花袋の自然主義文学に対して「余裕派」と呼ばれる。漱石自らは「低徊趣味」などと称して、人生をゆったりと写生する事を旨とした。余裕派には高浜虚子、寺田寅彦、鈴木三重吉なども分類される。 鴎外は「交響楽」、「交響曲」などの新語を作った。 漱石は、数多くの当て字の発明家として有名だし、新陳代謝、反射、無意識、価値、電力、肩凝りなどの語は漱石の造語だといわれているが、実は余り確かではないらしい。 但し、日本人固有の症状であるとされる「肩凝り」はどうも漱石の新造語らしい。この言葉が広がった所為で、日本人に肩凝りが増えたのだとも言う。 何より、漱石はお札になってしまった。 昭和59年(1984年)から平成16年(2004年)までの20年間、千円札には漱石先生の肖像画が印刷されていた。2004年に福沢諭吉にその地位を譲ったのは、慶應大学出身の小泉首相(当時)の、母校を贔屓にしての判断だ。(と思っているけれど・・・) 因みに漱石が千円札になった当時は中曽根首相で、中曽根康弘さんは東大の出身である。 鴎外はお札になっていないし、今後もなることはないだろうと思う。そうなると・・・僕としてはやはり漱石先生の方が好きだなぁ。 鴎外の死に臨んでの最後の言葉は、一言「ばかばかしい」だったそうだ。 漱石のそれは、「ここに水をかけてくれ。死ぬと困るから!」だったという。 鴎外は「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言し、禅林寺の彼の墓標にも唯「森林太郎」とのみ刻んであるそうだ。 勲章も肩書きもあの世にまでは持って行けない。「この世の事は夢の又夢」、と云う事なんだろうか。 合掌。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.07.11 22:01:58
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