カテゴリ:よもやま話
◇ 7月12日(日曜日) 旧五月二十日 戊午(つちのえ うま) 赤口、草市
今日はいよいよ東京都議選の投開票日だ。投票する人の数は順調に伸びているそうだから、それに応じた結果が出るだろうと思う。いずれにしても今日の夜の開票結果には興味津々ではある。 ちょっと待てよ!「きょうみしんしん」というのは「興味深々」だと今まで勘違いしていた。平仮名で入力して「変換キー」を押したら「興味津々」と出てきたから、初めは「何だ、このパソコン間違っている!」と思ってしまった。 そう云えば「興味津々」にはちゃんと見覚え(!)がある。何とまぁ、ワタクシとした事が!! これって、いつ頃から勘違いしていたのだろう。「勘違い」も「感違い」と勘違いしそうだ。 漱石先生なら「興味深々」でも許されるかもしれないが、ワタクシメ如きでは単なる「アホの間違い」に過ぎない。こうしてブログを書いている以上、今後は気をつけねば。(でも、同じ勘違いをしているのが周りには何人かいそうな気がする。今度試してやろう。) どちらにしろ、日中は特にする事はない。本でも読むか、後で散歩にでも行こうと思いながら今日の暦を見ていたら、今日は草市の日だとある。「草市」とは僕にとって初めて出会う言葉だ。気になって早速調べてみた。 ところで、「くさいち」と入力して変換キーを押したら、最初に「臭い地」と出た。けれど、これはちょっと笑えたけれど流石に勘違いしなかった。・・・当たり前か。 ネットで検索してみたら「月島の草市」というのが先ず出てきた。(それしか出なかった) 東京は中央区の月島で、7月12日(つまり今日だ)から14日までの三日間草市が開かれ、多くの人で賑わうのだそうだ。 草市で売られるのは焙烙(ほうろく=素焼きの土器)、麻幹(おがら=麻の茎を乾燥させたもの)、鬼灯(ほおずき)、溝萩(みぞはぎ)、桔梗など。 「何だそれは?」と聞かれれば、これらは皆お盆用品だ。 今では伝統に則ってお盆の行事を行うしきたりは、一般の家庭では、特に東京の「新住民」の住む辺りでは廃れてしまった。しかし、本来は地方ごとにしっかりとした手順に沿って行われる重要な年間行事だった。 お盆が近づくと、先ず盆路(「ぼんろ」とか「ぼんじ」ではなく、「ぼんみち」と読む)を整える。これは先祖の霊が山や西方から下りてきて、それぞれの家にちゃんと帰り着けるようにするためで、要所々に灯(盆燈篭)を用意したりする。盆路は精霊路とも呼ばれる。 次に、盆花を用意する。盆花も地方によって変化があるが、上に掲げたように鬼灯、溝萩、桔梗、女郎花(おみなえし)、槙(まき)などである。その他に、野菜、果物、精霊棚の供え物、真菰筵(まこもむしろ)、ハスの葉(前者とともにお供え物を載せる)、茄子や胡瓜に割り箸などを突き刺して作った牛馬、灯籠、団扇、提灯などなど、所に応じて実に多彩なものを整える。 こういうものを商うのが草市だった。 つまり、こういうお盆の花や草を商うから草市だ。なるほど・・・ と納得しかかったら、どっこい、そうではないようだ。 草市という名称は、元々は中国で墟市(きょし)とか草市(そうし)と呼ばれた定期市に由来するのだそうだ。 昔の世の中では、商いの行為は時の政府の厳しく管理・統制するところのものであった。これは日本でもそうだった。しかし、それだけでは人々の需要を満足する事はできなかったので、特に免じて一定の日に特定の場所で、官の関与しない民草同士の商いを許していた。これが墟市であり、草市である。 許されて市の立つのは集落の辻や交通の要所で、決まった日の市が終わって人混みが去ると、まるで廃墟のようになってしまったから墟市。「墟」というのは「空しい土地」とか「都の跡」という意味の字である。昔の町や集落は、勿論道路は舗装されていない、土の道だ。人混みが絶えれば土埃だけが風に舞う寂しい光景だったろう。「墟」という字はそういう雰囲気を持っている。 又、上に述べたようにこの市は官ではなく、民草による、つまりは草莽の民による市場だったから草市なのだ。 かくのごとく、草市は本来民間の定期市一般の事を云っていたのだ。 しかしやがて、年末の「歳の市」に対して、「お盆の準備のための市」という意味に限られるようになっていった。それに連れて草市の他に、盆市、盆草市、草の市、盆の市、手向けの市、花市などと、呼び名も多様になっていった。 今では草市の名前では、僕が調べた限りでは、東京の月島と秋田市馬口労(ばくろう)町の草市くらいしか残っていない。秋田市はお盆も関西地方と同じように「月遅れ」で行われるから、草市も8月に行われる。 しかし幕末から明治くらいまでは、東京でも下町だけでなく山の手など方々で草市は立っていたようだ。泉鏡花や岡本綺堂の作品などには時々これが出てくる。 岡本綺堂の「海亀」には、明治三十何年かの話として、「言うまでもなく、その日は盆の十二日だから草市の晩だ。銀座通りの西側にも草市の店がならんでいた。」とあるから、繁華で洒落た銀座通りにも当時は草市が立っていたのだ。 月島は1892年(明治25年)に埋め立てて出来た人工島だ。しかも当時の富国強兵策に沿って鉄工業用の工場地域として作られた土地だから、そんな土地にどうして草市が根付いたのかは不思議だ。 思えばしかし、もう120年近くも前の事だ。明治というから、それほどでもないだろうという感覚ではいても、百年以上といえば、鉄工場地帯に人々が根付き、その人達相手に商う町が出来、やがて下町が形成され、其処に新しい習慣が持ち込まれて改めて伝統になるには、充分な時間なのかもしれない。 現にご当地のもんじゃ焼きも「下町の伝統料理」などと呼ばれて、名物になっている。 そんな事を知った上で、月島の草市に出かけてみるのも良いかもしれない。ウェブで見た様子だと、露店が百数十も出て、お盆用品だけでなく各地の物産なども並べられ、大層な賑わいとなるのだそうだ。 草市の中心は西仲通りといって、いわずと知れた「月島もんじゃ焼き」のメッカだ。 今では東京メトロの有楽町線、都営大江戸線の両線共に月島駅があるから、都心からのアクセスも格段に良くなっている。 13日には、西仲通り商店街の其処此処に、焙烙の上で麻幹を焼く「迎え火」が見られるかもしれないそうだ。 【付け足し】 麻幹(おがら)とか焙烙(ほうろく)とか真菰筵(まこもむしろ)とか、今では余り耳馴染みの無いお盆用品のイメージを探していたら、ネット通販でちゃんと販売されているのを見つけた。麻幹で拵えた牛馬の人形まで付いている。 「なるほど便利になったんだなぁ!」と感心したが、その商品名が凄い。「心待ちセット」だと! お盆には祖先の霊が帰ってくるからと、「心待ちセット」なんだろう。しかしこれでは名前を付けた人間がお盆の上っ面だけしか知らないのがバレバレだ。 昔の人からすると、お盆で帰ってくる祖先の霊は、諸手を挙げて歓迎するものではなかった。ご先祖様は粗略には出来ないから、色々準備をして失礼の無いようにおもてなしをする。迎え火を焚いて道を間違えないようにし、茄子で牛を整えてゆったりと揺られて帰ってこられるようにする。 しかし、本心は死んだ人の霊が怖くて仕方がなかったのだ。 この場合の「こわい」というのは単純に「恐ろしい」と云うのとは違う。「畏怖」とか「畏敬」といった、敬う気持ちを伴った怖さなのだ。 冥土なんて無論誰も未だ行った事はないし、其処から戻ってこられるご先祖も、決して生きて親しくしていた頃の、自分たちと同じ生身の人間ではない。迎える側の気持ちとしては懐かしさ半分怖さ半分である。 お盆の間中、生きて接待をしている側は相当緊張をしていたはずだ。特に一年以内に亡くなった、従って未だこの世との境を迷っている霊に対しては、更に不気味に思う気持ちが強く、盆棚も他の霊とは別に誂えて特別扱いをしたのだ。 そしてお盆が滞りなく、祖霊に失礼や粗相がなく終わってほっとした後は、今度は怖さが嵩じて、皆様にはとっととアチラにお帰りになって欲しい。 帰りの乗り物は、だからゆったり歩く牛ではなく、疾駆する馬だったのだ。 盛大な送り火も、精霊流しも、「お疲れさん!さっさとアチラに戻って、もう来年までは絶対に帰ってこないでね!」という気持ちも込められていた。 決して「心待ち」にするような、ほのぼのした身内の再会気分などでは無かったのだ。 この辺が忘れ去られてしまったら、日本人にとってのお盆の本当の意味も、日本人の当時の死生観も、共に忘れ去られる事になるのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.07.12 19:41:28
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