カテゴリ:よもやま話
◇ 7月14日(火曜日) 旧五月二十二日 庚申(かのえ さる) 友引
気象庁は今日関東甲信越地方の梅雨が明けたようだと発表した。 近所のタバコ屋のオバサンはそう報告してくれた。電車の中ではどこかのオジサンとオバサンが、「お昼のニュースで梅雨が明けたって云ってたよ。」、「おぉ、そうかい。いつもより早かったのかなぁ。」と話していた。皆嬉しそうだ。 宵のニュースでは、街頭でインタビューされた女の子が、「えっ!明けたんですか?嬉しぃーい!」と、本当に嬉しそうに云っていた。 そうか、皆梅雨が明けると嬉しいんだ。 梅雨明けなどというのは明確な定義がある訳ではなく、日本の上に停滞した梅雨前線が、優勢になった太平洋高気圧に押し上げられて・・・・。 などと、皆さんが素直に喜んでいらっしゃるのにご託を並べるのも無粋な話だ。どんよりとした空から、ぐずぐずと切れ目もなく降り注ぐ雨よりも、青い空、真っ白な入道雲、カッと照りつける太陽の方が、皆やっぱり好きなのだ。 それにしても気象庁の発表は煮え切らない。「本日関東甲信越地方では梅雨が明けたように見受けられます。」と何となく自信が無さそうだ。 以前は「気象庁は××地方の梅雨明け宣言をしました!」と、もっと歯切れがよかったように覚えている。これも、昨今の責任回避の風潮に沿っての事かもしれないが、折角皆さんがこんなに喜ぶのだから、もっと威勢よく「梅雨明け宣言!」とやってくれたらいいのに。 間違っても許してあげる。元々宝くじと天気予報は当たらないものの代表格だったし。天気予報が外れても、民草は殊更に目くじらを立てることなどせず、「・・・ったく、しょうがねぇなぁ」と云いながらも許してきた伝統がある。数多ある中央省庁の中でも、気象庁とはそういう稀有なお役所なのだ。 だから、高々と堂々と宣言を発すれば良い。そして間違ってたら「ごめんなさい」と云えばいい。そういう伝統はちゃんと残していくほうが良い。 ところで、漱石先生は生涯に15句、梅雨の句を詠んでいる。但し全て「梅雨」ではなく「五月雨」だ。俳句の季語としては「梅雨」は認知されていないのだろうか? 橋落ちて 恋中絶えぬ五月雨 (明治29年) - 何となく七夕を連想する。 五月雨や 鏡曇りて恨めしき (明治29年) - 梅雨時の鬱陶しさ。これは女性の気持ちだな。 五月雨や 小袖をほどく酒のしみ (明治30年) 五月雨の 壁落としけり枕元 (明治30年) - この二首は子規に送ったもの。 五月雨の 弓張らんとすれば くるひたる (明治30年) - 色々湿気て弓の糸もちゃんと張れない。 一つ家を 中に夜すがら五月雨るゝ (明治42年) 五月雨や ももだち高く来る人 (明治42年) じとじとグズグズした梅雨明けには、往々にして雷がなる。 雷の 図にのりすぎて落にけり (明治40年) 梅雨明けで喜んだのも束の間、今度は連日の猛暑に汗を絞られる日が続く。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.07.15 12:46:21
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