カテゴリ:日ノ本は言霊の幸はう国
◇ 7月15日(水曜日) 旧五月二十三日 辛酉(かのと とり) 先負; 盆、下弦
猛暑の中とつおいつしていたら、電話がかかってきた。 “Hello Mac! It’s Mark!” マークと話すのは無慮数年ぶりだ。それが、いきなり「やぁマック。マークだよ!」だ。 ボストンに住んでいるマークはMD(Medical Doctor = つまり診療医のこと)で、医療とITの接点のような分野で仕事をしている。その関係で僕と知り合い、もう延べにして20年近い付き合いになる。 聞けば、かねて計画していた家族旅行が漸く実現の運びとなり、日本に行く。ついては是非会いたい。それと何処で何を見て何を食べるか、色々助けて欲しい。×××さんとも会いたい。連絡が付くだろうか?東京では△△△ホテルに泊るから、会えるように手配してくれるだろうか? 初めて日本に行く家族の手前、自分はちょっとばかり知日派を気取りたい。そして夫として、父親として少しばかりカッコをつけたい。 そういう電話だった。 久しぶりに心浮き立つ気分になった。 それにしても、数年ぶりの電話で前置きもなく「マークだよ!」だ。 マークなんて、珍しくもない当たり前の名前だ。テキは数年という時間を超えて「マークだよ!」だけでちゃんと通じると思っているし、その通りにこちらでも通じてしまうところが凄い。 これは、マークでなくてもトムでも、サム、ジョン、ジョー、テッド、マイク・・・・皆同じだ。アメリカ人はちょっと親しくなるとお互いにファースト・ネームで呼び合おうとなる。 イチローも、サインボールを貰おうともじもじなどしていないで、もう少し度胸が有ったらオバマ大統領と「やぁバラク」「よぉイチロー!」と呼び合えただろう。二度断ったにも拘わらずわが国の国民栄誉賞の最右翼候補で、引退後は時の与党から参議院議員候補か都知事候補に推されそうな人物としては少し残念な事だった。 これが日本人同士だったらどうだろうと考えてしまった。 電話なら先ずフルネームを名乗って、「ワタクシ何処そこで誰それ社長のご紹介でお目にかかり、アレコレの際には随分お世話になりました。」などと背景や経緯の説明から入るだろう。 直接会っての話であれば、何はともあれ名刺の交換から始まる。 いずれにしても日本人は、相手は姓で呼び、肩書きで呼ぶ。決して「太郎さん、色々大変ですね。」などとは云わない。 我々は普通他人を名刺で記憶している。名刺には相手の身分や肩書きが書かれており、それは相手がどの程度の地位か、従って自分との上下関係はどうなるかを推し量る便になる。 親類同士だと流石に名刺は交換しないかもしれないが、それでも本家筋か分家筋かは気になり、その人が今どこの会社や組織でどんな地位にあるかを勘案して、自分との上下関係を見定めようとする。 特に見るべき差別化要因を主張できない場合には、名前の字が一郎か、或いは一朗であるかにこだわり、「私の恵と云う字は本当は惠なんですよ」と敢えて主張したりする。 人に接するに際して先ず、その人と自分との関係を社会構造の中で見極めてからにしようとする「本能」が我々日本人の心に沁みこんでいる所為だろうと思う。 日本語では、挨拶も呼びかけも、社会の中での自分と相手の関係に規制を受けるのだ。 幾つか例を挙げてみる。 父から息子: 「お前にお金をやろう」=○ 息子から父: 「あなたにお金を上げます」=不自然 息子から父: 「お父さん、お金を下さい」=○ 父から息子: 「息子、お金を上げるよ」=おかしい! これらは人称代名詞と親族呼称についての「規制」の例だ。 課員から課長: 「課長、そろそろ昼食にしましょう」=○ 課長から課員: 「課員、そろそろメシに行こうか」=おかしい! これは目上の人には職位階層名で呼びかける。目上から目下には逆におかしい、という「規制」の例だ。 直接名前で呼びかけるのは、もっと規制が強い。 部長からヒラ社員: 「吉田君、良い仕事をしたじゃないか」=○ ヒラ社員から部長: 「佐武さん、素晴らしい業績じゃないですか」=不自然。怒られそう! 父から息子: 「由紀夫、お金をくれ」=○ 息子から父: 「威一朗、お金を上げるよ」=おかしい! 食堂や居酒屋で「すみません、スミマセェーン!」と客が謝っているのも、「あのぉー」とか「ちょっとォー」とか叫ぶのも、或いは業を煮やして大きく手を振って店員の注意を引こうとするのも、こういう「規制」が適用できない場所や相手では、日本人として相手にどう呼びかけて良いか分からないからだろう。 井上ひさし氏の「日本語日記」(文藝春秋:平成五年)にも、日本語には「そのときそのときの適切な挨拶ことばが」無く、「挨拶に似たものに呼びかけがあるが、これなどはもっと品不足である。」と書いてあった。 それもそうだろうが、それ以前に、日本人は個人同士の人間関係よりも、社会構造の中での相互の位置関係を重視してしまう、というのが根本的理由であろうと思う。言葉や表現の多寡はその結果のことである。 マークは有象無象のマークではなく、かつて勝手に他人の(と、いっても知り合いだったが)自家用機を駆ってナンタケット島まで一緒に飛んで行ってしまったマークだ。僕の誕生日に田舎の食堂で一緒に飲んだくれて、地元っ子の癖に道に迷ってしまったマークだ。 そんなマークを、よもやお前は忘れはしまい。他のマークと間違える事などあるまい。 アメリカは王様がいない国だから、貴族の家系も無いし、家柄という感覚も希薄だ。だから姓など大した意味を持たず、社会構造はオモテの世界での力量やカネの多寡だけで決まる。個人の関係はマークとマックで充分だ。「何処のマークでマックか」は、当人同士が分かっていればそれでいい。 そういう感覚なんだろうな。 古代より万世一系の王様を戴く国の国民としては、アメリカ人は時に余りに雑駁でがさつだと思う事もあるけれど、これは逆に自らがそういう社会構造に囚われてしまっているという圧迫感も伴う。最近の僕は、特にそういう圧迫感に苛まれているところがある。だから、”Hello Mac! It’s Mark!.”には、少なからず心の浮き立つ思いがしたのだ。 マーク一家は、成田から京都に行き祇園祭の宵宮見物をするそうだ。そして大相撲名古屋場所を見物して、「途中でちょっと富士山に寄って(!)」東京に戻ってくる。 このクソ暑い中、本当にご苦労様な事だけれど、夫として又父親としての沽券にかかわるところだから、是非にも頑張って無事に東京に辿り着いていただきたい。 東京では築地の場外市場に行きたいとステレオタイプな事をいっているから、ついでに水上バスで隅田川を遡って浅草まで行ってみたら?と提案しておいた。 両国の江戸東京博物館も推薦しておいたけれど、これはちょっと玄人受け狙い過ぎるかも知れない。 延べで十日以上も日本に居るんなら、箱根に一泊して温泉にでも浸かったら?火山活動も(大涌谷の事だ)垣間見られるし(黒たまごも食べられる!)、天気さえ良ければ富士山も見事に見える。何より温泉は旅の疲れを癒してくれるよ!(それなら僕も喜んで参加しよう!)とも、強く勧めておいたのだがこれは却下された。どうも僕が「温泉ではアカの他人と、一糸まとわぬ姿で、一緒に入浴せねばならない」と強調したのが、奥方やお嬢さんには逆効果だったようだ。 僕自身がどこまで付き合うかは彼次第だが、一番最近の連絡では「日本の典型的なLocal Foodを食べたい。例えばシシャモとか、マグロの刺身とか・・・」などと云って来た。どうも京都では、はんなりチマチマした懐石料理にいささか食傷気味ではなかったろうか?(京都にはやはり友人で、立派な女性ガイドがいらした。) シシャモとマグロかぁ。肉じゃがとか枝豆も付けるのかなぁ。・・・さてどうしたものか。 何れにしろ久しぶりのマークとの再開は楽しみな事である。 ※ 日本で問題になっている「オレオレ詐欺」はアメリカでもあるのだろうか?ファーストネームでしか呼び合わない文化では、相手の個人としての全体像を補足する事に、より以上の注意を払うはずだ。そういう場所柄で「あのぅ、オレだけど、オレオレ」などと云って、遠くに離れて住んでいるとはいえ、肉親を騙す事などできるだろうか?ご存知の方はお教え願いたい。マークにも聞いてみよう。 ※ 「マック」というのはワタクシメのアチラでの呼称だ。最初は「マイク」と呼ばれていたが、当時の上司が「まさよし」という名前で、やはり「マイク」と呼ばれていたので、注文をつけて「マック」に変更してもらった。 Ross Thomasの「黄昏にマックの店で」という、好きなミステリーもある。黄昏のマックの店(バーである)には、低く抑えた音量でスロージャズが流れていそうだ。 でも小説では、この「マックの店」はボストンではなくワシントンにある(事になっている)のですがね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.07.16 13:21:42
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