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マックの文弊録

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2009.10.19
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カテゴリ:小言こうべえ
◇ 10月19日(月曜日) 旧九月二日 丁酉(ひのと とり) 仏滅: 東京日本橋べったら市

【電池依存再び】
17日のブログに【電池依存】というテーマで書いたら、浪来三五郎さんという方からコメントをいただいた。浪来さんは、「銀塩カメラになさったら?」とおっしゃる。

そうだった!昔のカメラは電池が要らなかった!
フィルムを巻き上げて、構図を決め、露出やシャッタースピードを調整して、ピントを合わせ、おもむろにシャッターボタンを押した。これらの操作の全てを吾と吾が手で行っていたのだ。

浪来さんは「自称平成の木村伊兵衛??? モノクロ写真の不思議な力と古いカメラのバネと歯車の仕掛けだけで写真が撮れる潔さに魅了されています。」とおっしゃる。
浪来さんは名機Rollei35を愛用なさっていて、それで「浪来三五郎」とおっしゃるのだそうだ。

なるほど、確かに全て手動のカメラで撮影する銀塩写真にはノスタルジーを醸すものがある。僕も亡き父譲りの銀塩カメラを2台ほど持っている。しかしこれは既に「堕落した」比較的新しい時期のもので、デジタル表示やフィルムの自動巻上げ装置などが付いており、やっぱり電池に頼らざるを得ない。

しかし、僕自身はやはり自分で使うには、浪来さんには申し訳ないけれどデジタルカメラの方がどうしても便利だとせざるを得ない。
僕は、写真を撮ろうと思ったら、ひたすら撮影モードに気持ちを切り替えないといけない。どういうことかというと、具体的にはとにかく沢山シャッターを切ることである。

プロの方々は知らず、僕などは随分何枚も撮った積りでも、後になって眺めてみると、あっけないほど少ない写真しか撮れていないと思うのが常である。特に気に入った写真が少ない。

僕の場合、「自分の目でモノを観るモード」と、「写真を撮影するモード」とはどうも両立しないようだ。
先日はある庭園で水琴窟を見つけて喜んだくせに、帰ってみると肝心の水琴窟の写真を撮り忘れている。これはと思った対象を見つけてシャッターを切ったにも拘らず、観てみると構図が悪かったり、ピントや露出が悪かったり、微妙な点が気に入らない。その癖意識しないで撮った写真に「中々良いなぁ」と思うものを見つけたりもする。
そうなると、自らの目で鑑賞しながら楽しみながら、それなりの写真も残しておく為には、とにかく何かある都度シャッターを切っておく必要があるし、特に人などの動きのあるものに付いては同じシーンを何枚も数多く撮っておかなければならない。そうしておいてやっと何枚か自分なりに納得できて気に入った写真が生まれてくるのである。

こういう風だと、やはり何枚だろうがメモリーカードの容量一杯まで、失敗を気にせずに撮影できるデジカメである。銀塩カメラではフィルムを何本も消費せざるを得ず、どうしてもケチ根性を払拭できない性としては、勿体ない気持ちの方が先立って、シャッターを押す手が滞りがちになる。

それにデジカメは後でパソコンを使って修整やトリミングが出来る。多少逆光気味で撮った写真なら、明るさとコントラストを調整できるし、気が付かずに余計なものまでが写っててしまっていても、トリミングで画から外すこともできる。カラーで撮影した写真でも、セピア調のモノトーンに加工できるから、ちょっとレトロな感じを演出することも出来る。
銀塩写真だと、よほどの趣味人で無い限り、普通はDPE屋さん任せになってしまうので、こういう自由度は無い。

つまりは、僕の写真やカメラに対する姿勢は邪道なのだろう。
無闇と沢山撮って、後でコチョコチョ細工をするということになると、どうしてもデジカメになってしまうのだ。
従って、やはり中々消耗しない電池の開発を望むより他は無いのである。

それにしても、浪来さんはゆったりした豊かな時間をお過ごしになっているのに違いなく、その点は本当にお羨ましいと思うことしきりである。


【政治家は君子豹変というけれど】
民主党政権になってから、かつての自民党政権時代とは報道されるニュースの調子が変わってきたような気がする。補正予算の絞り込みの過程にまで踏み込んだ報道は以前には無かったことだし、それぞれの閣僚も闊達に新機軸を打ち出そうと積極的に動いている。中々清新の気風が見える所なども以前の自民党政権には無かったことで、僕としては好感が持てる。

Squeezerは嫌われるものだ。
ダム工事の中止や、補正予算目当ての事業が縮小されたり中止されたりするのは当然の事である。それによって自らの利害が傷付けられたといって騒ぐのは、自民党政権時代の政策をそのまま継承しろというのと同じだ。自らの既得権をそのままにしておいて、それ以外のところでだけ新しい政治をやれというのでは、民主党に圧倒的多数の議席を与えて、結果的にこの国の政権を委ねた、先頃の選挙での我々大衆の行動とは矛盾する。

民主党は事あるごとに、「コンクリートから人へ」と云っている。ならばその政策に反対する地方や大衆も、これに対抗する、天下国家に視野を据えた理念を掲げるべきだ。「何十年も待たされた挙句に、此処へ来て中止だとは、余りにひどい!」と云うのは如何にも泣き言めいて情けない。それにそういう苦情をぶつけるべき相手は、そんなにも長い間放置するに任せてきた自民党であろう。

今一番張り切っているように見えて、それ故に方々から賛否の評にさらされているのは前原国土交通大臣だ。羽田空港の国際化をぶち上げて森田千葉県知事の逆鱗に触れたのはつい最近のことだ。
森田知事は芸人出身の所為か、政治家としては一般ウケのする言葉をお発しになる。それが僕から見れば、県の知事としては如何にも品格に欠けて、底の浅いもののように見える。特に羽田空港の一件では、眦を決して不退転の意気込みで前原大臣と談判に及んだはずだったのに、あっけなく懐柔されてしまい、ゲタゲタ笑って大臣の肩を叩いていらっしゃった。「いやぁ!地方をあんまり苛めないでくださいよ!あはは。」だそうだ。観ていて千葉県民がお気の毒になった。

あの人は元々大田区を地盤として議員におなりになったそうだ。それが、「埼玉県か千葉県の知事になりたい!」とおっしゃり、結果として千葉県の知事選に当選してしまったのはご存知の通りだ。もともと海辺に駆け出して、夕日に向かって「バカヤロォー!」と叫ぶのが得意な人だから、海の無い埼玉県の知事におなりにならなかったのは、埼玉県に住む身としては大いに幸いである。
千葉市辺りの海べりに立って西を望めば、羽田空港は目の前だし、晴れた日の夕方ならば夕日も望める。目の前の羽田空港を睨みながら「バカヤロォー!」と叫べば、彼にはお誂え向けの景色である。

ところが、この人は大田区選出の議員だった頃には、羽田空港の国際化を実現するのだと「40歳台の青春の全てを賭けて」いらしたのだそうだ。これは、ブログ上のお仲間である為谷邦男さんのブログで知った。「お笑いみのもんた劇場で紹介されたものだそうだが、面白いから此処にリンクを貼っておく。

君子豹変というけれど、それは大義や理念が有っての話である。選挙の地盤が変わればそれに合わせて政治理念までころっと変えてしまうのは、悪しきポピュリズムの見本みたいなもので、まことにお里が知れる。改めて千葉県民にはお気の毒様と申し上げなければならない。

ところで、民主党政権には今しばらく遷移状態が続く。
長い自民党政権時代からの脱却を実現しようとすれば、これは止むを得ない。来年度予算が史上最大に膨らんだというのも当然である。政権が変わっても、国の政策の相当部分には継続性が保証されなければならないのだから、民主党を政権政党として選んだ有権者としては、これは有る程度許容する責任も有る。

一方で、前任者を批判や否定している段階は、後任者としては前任者を批判し悪者に出来るのだから、楽な段階でもある。民主党政権の本当の本当の試練は、来年度予算が決まって以後、独自の政府運営が実務段階に入ってからの事になる。

かように新政権にはまだまだ大いに期待をしたい。
しかし、一つ気になることがある。それは、国会で官僚が答弁するのを禁じるという法案である。これは政府内からではなく、民主党の小沢幹事長の考えのようだ。
あの小沢さんの事だ。ついその背景にある種の政治的な思惑を勘ぐってしまう。
しかし、それはさて置きこういう事柄を法律にしてしまおうという考えはおかしい。議員にとって、立法は成果実績であり勲章である。しかし、法律は出来た時から一人歩きしてしまう。遵法とは個々の法律の中身に関わらず人を拘束するものである。

国会は良識の府であるはずだ。小沢さんの秘められた意図は問わないとしても、こんな事は運用で官僚依存を廃していくようにすれば良い。この点僕としては珍しいことだが社民党の意見に賛成する。


【厚木語辞典】 その第2回
あきのひはつるべおとし = 秋の日は鶴瓶落とし
秋の日は寂しくて、特に夕方になるとあの賑やかな笑福亭鶴瓶ですら落ち込んでしまう。→『秋の陽は釣瓶落とし』

いっしみだれぬ = 一糸乱れぬ
一糸纏わぬ真っ裸に、ほんのわずかな衣装を纏って踊っても、これが乱れることなく、大事なところはちゃんと隠しとおせる。かつての厚木宿でのプロストリッパーの伝説。→『一糸乱れぬ』

むりじに = 無理死に
厭なことを言ったり、やりたくない事を強制したりして、死ぬほどの思いを相手にさせること。大抵は死ぬまでには至らないが、時に本当に死ぬより辛い思いをさせたり、仮死状態に陥らせてしまったりするともあるので、一般にやってはいけないこととされる。→『無理強い』

あるって = 歩って
「歩く」という動詞は日本語ではカ行五段活用だが、厚木語では特殊な「タ行促音活用」となる。
(用法)「昨日は一杯あるったなぁ!」、「距離がこんなにあるって教えてくれてたら、あるってなど来ないのに!そんな事ってあるってか!?」などと使う。→『歩いて』







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最終更新日  2009.10.19 19:52:44
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