カテゴリ:薀蓄
◇ 11月9日(月曜日) 旧九月二十三日 戊午(つちのえ うま) 先勝: 太陽暦採用記念日
【太陽暦】 今日は太陽暦採用記念日と云う事で、ブログでよく暦の話を書いている私としては、一筆献上しなければならないと勝手に決めた。 わが国がそれまでの太陰太陽暦を改めて太陽暦に移行したのは1873年(明治5年)の事である。この年、明治政府は今日、つまり11月9日に新しい暦に移行する旨発布し、明治5年12月3日を改め1873年(明治6年)1月1日とする事とした。 旧幕時代が終わり、いよいよ西欧列強に伍して国力を蓄えていこうとするためには、海外とのやり取りを飛躍的に活発にしなければならない。それなのに日本が旧暦のままでは困る。条約を結ぶにも日付をどうするか。条約まで行かなくても、欧州の先進国に使節団を送る打ち合わせをするにも、向こうが西暦で日付を云ってくるのを日本の暦に翻訳しなければならないし、又その逆の場合も同じである。 今は電話やネットで海外だろうが何処だろうが直ぐに連絡できるが、それでも時差の計算を間違えたりする事は私も頻繁にある。「えーと、アチラとの時差はこれこれだから、今は一日の勤務時間が終わる直前だから、電話するには丁度良い頃合だろう。」と電話すると、向こうは夏時間で既に帰宅してしまっていた。そういう失敗は何度もしている。 当時の通信手段は手紙でしかも船便だから、時差を心配する必要は無かったろうが、暦の体系が異なると、時差の換算よりもっと困ったろうと思う。年号だけの話だったら、西暦を併記するようにすれば済むが、太陽暦と太陰太陽暦では、月も日にちも異なるからどうにもならない。 「あの人は背丈が五尺八寸で体重が二十貫もあるんだって。」というのを、「彼は身長が・・フィート・・インチで、体重は・・ポンドだ。」と翻訳するのは誰だって直ぐには出来ないだろう。 歴史の勉強をして、いやそこまでいかなくても時代小説を読んで、文久三年閏四月などといってもそれがいつの事だかは日本人でも(私だけか?)ピンと来ない。元禄花見の宴と云っても、それが一体いつ頃の花見の宴会なのかは、一々調べて西暦に変換しないと分からない。今の我々はいってみれば当時の外国人と同じである。 つまりは、太陰太陽暦と太陽暦は数え方の単位系が違うようなものだ。 そこで明治政府は、エイヤーとばかりに当時西欧列国が広く採用していた太陽暦(正確にはグレゴリオ暦)を採用することにして、その年の12月2日の翌日を翌年の元日にしたのだ。 と、いうのがごく真っ当な話なのだが、実は本音は違ったらしい。 当時の明治政府は旧幕軍に対する戦勝国(藩)の寄せ集めであったが、これは内戦であったから戦時賠償も取れず、財政に逼迫していた。そこで太陽暦を採用すると、12月は2日しかないからという口実で12月分の給料を払わなくて済ませられる。 それに太陰太陽暦では19年に7回の割合で閏月というのが有る。 これはちゃんと説明しようとすると、又長々と書かなければならない。そこをなるべく簡単に済ませるとこうなる。 つまり、太陰暦は要するに月の暦である。月齢周期は約29.5日だからこれを12倍すると354日にしかならないから、年に11日足りなくなる。これをそのままにしておくと1月が春になりやがて夏になってしまうから、農耕には役に立たなくなる。それで19年に7回の割合で閏月を入れて、太陰暦と太陽の動き(実際の季節)との間に大きなずれが生じないようにした。(いつどういう目安で閏月を入れるかに付いてもちゃんとした規則があるが、この説明は余りにオタクっぽくなるので省略する。) つまり一年に13ヶ月有る年が出てくるので、たまたま旧暦明治6年はこの閏月がある年であった。そうすると、明治政府としては上のタイミングで太陽暦に切り替えてしまえば、上に述べたように明治5年12月分の給料一か月分と、翌年の閏月分の給料と、合計2か月分の給料を削減できるのである。 つまりは、明治5年の決断は、グローバルスタンダードに追随するというようなまともな動機からというよりも、実は財政上何とかしなくちゃ、という背に腹は代えられない理由に依るものだったのだ。 いつの時代も金の無い政府は苦労する。 それにしても、この年は師走になったと思ったら、直ぐに正月が来てしまったのだ。晦日の借金の取り立てはどうなったんだろう?借り手の方が踏み倒しできて得をしたのか?それとも、暦の変更が発布されてから、取立て騒ぎが起こったのだろうか? 大いに気になるところである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.11.12 17:18:00
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