カテゴリ:日ノ本は言霊の幸はう国
◇ 11月10日(火曜日) 旧九月二十四日 己未(つちのと ひつじ) 友引: 下弦
【音読みと訓読み】 私のブログ友達に釈迦楽先生という方がいらっしゃる。この方は中京地区の某国立大学のれっきとした教授でいらっしゃるから、私が「ブログ友達」などというのは僭越の極みかもしれない。でも、僭越は私の身に染み付いてしまっているらしく、よく人にそう指摘される、それも特に女性から指摘されることが多いから、反省は(大いに身に沁みて)するけれど、治しようがない。 その釈迦楽先生が、ネット上での無料ゲームを集めたサイトを紹介してくださった。 無聊をかこったある日ある時(などと予め言い訳してる)行って見たら、なるほど十数種類のゲームが並んでいる。無料とはいえ、それぞれに良く出来ていて中々面白い(ものもある)。 掲載されているゲームを大きく分けると、反射神経を使う、つまり短時間でとっさに何かしなければならないものと、麻雀や陣取りゲームのように戦略や作戦を考えさせるもの、そして知識を試されるゲームの三種類に分けられるようだ。 反射神経を試されるゲームは、私は概して苦手だ。 自慢じゃないが中学や高校時代は、反射神経は誉められた。剣道をすれば、「打ち逃げ場外が上手い」と誉められ、柔道では「受身が上手い」と誉められた。要するにわが身の危険を察知した時の私の反射神経は抜群らしい。しかし、逆にわが身が攻撃する場面においては中々に同様とは行かない。だから剣道も柔道も強くはなれなかった。テニスは元々身の危険を感じるスポーツではないから自慢の反射神経も役立たず早々に撤退したし、ゴルフも同様だ。スキーは逆に、防衛上の反射神経に不断の緊張を強いられるから疲れる。 その点、車の運転はとっさの判断でハンドルを切ってブレーキを踏むのには揺ぎ無い自信があるが、きっと誰かに追われて猛烈なスピードで逃げるような場合にはダメなように思う。追っ手から逃れるのにブレーキワークが幾ら上手くても、直ぐに捉ってしまう。それに車で逃れるというのはむしろ攻撃に近い。 戦略や作戦を考えるゲームは、ゲームを作った人間の能力がゲーム自体の難度の限界値になるから、数回やってゲームの作られ方が見えてくると、もう飽きてしまう。中々私の好敵手になれるような戦略ゲームを作るのは難しかろうと(今のところ)思っている。 知識を試されるゲームはその点面白い。知識はゲームの作者に依るものではない。世の中の歴史や書物の中に蓄えられているものだから、ゲーム作者との内向的な争いではなく、世界を相手にしている気分になれる。 で、この無料ゲームサイトには「難読漢字を読む」というゲームが有る。 レベル1からレベル5までの5段階に分かれており、レベルが上がるごとに難易度が高くなっていく。それぞれのレベルには5問あり、1問ずつ表示された漢字や熟語の読みをキーボードから入力する。一問は10秒以内に答えなければ時間オーバーになって、そこでゲーム終了である。 私は漢字にも中々優れており、その証拠に私の書くブログや他の文章は、「漢字が難しくて読めない!」という批判(非難か?)を頻繁に受け取っている。(「長すぎる!」という批判もある。) だから、自信満々でこのゲームに臨んだのだが、これが中々手強いのだ。 最初の何回かはレベル3程度で敗退してしまった。 その内気が付いた。 私が間違えたり読めなかったりするのは、圧倒的に「訓読み」の場合なのだ。「音読み」の漢字は殆ど問題なくパス出来る。つまり名詞になっている漢字は読める。 例えば、牡蠣、洒脱、諧謔などは皆音読みだ。ただ一つ「微塵子」には戸惑ったが、これは元来漢語ではなく、生き物の名前の当て字だった所為だと思う。 それなのに、動詞に用いられる漢字は、字そのものは読めるが、全体として読めないものが多いことに気が付いたのだ。 「煌く」、「綻びる」、「殺める」などは未だいい。しかし、例えば以下の漢字は、あなたはお読みになれるだろうか? 「悖る」、「嵌る」、「顰める」。 更には「憾み」、「嫉む」、「身動く」、「翳す」などはどうだろう?正直申し上げて、私は読めなかった。 ついでに言うと、「猫糞」というのが、これは名詞だが、読めなくて時間切れになり、答えを見てつい「このやろう!」と怒鳴ってしまった。 ここで上のそれぞれの問題の正解を書かないのは、実際このゲームをこれからおやりになる方のためである。それに、もう一つは「そんなに簡単に答えを教えてやるもんか!」という悔しさ半分もある。 こうして見ると漢字で書いて読めない、或いは読み難いのは基本的に「話し言葉」つまり、元々は「やまと言葉」を漢字表記したものである。 良く知られているように日本語は元々文字の無い言葉であった。そこに大陸から漢字が輸入されて、元々の日本語を書き文字にするために万葉仮名というものが出来た。同時に仏教の経典や中国由来の古典(当時は現代書でもあったろう)なども到来し、長い時代の間にそれらが混合し、漢字の略字としての平仮名や片仮名も発明されて、日本の「文字文化」になったのである。 しかし、これだけの時間を経ても、「やまと言葉」には日本人として独特の語感を覚えるらしい。一方で漢語は相変わらず、「堅苦しい」とか「大仰だ」、「よそよそしい」などという感じがある。 これを一言で云えば漢語は日本人にとって相対的に無味無臭なのだ。 例えば「謝意を表します」というより「ありがとうございます」の方がなんとなくしっくり、しっとりして心がこもっていると思う。これは今上の在位20周年の祝賀の席で、今上ご自身がおっしゃった。(このブログは、日付は10日だが、書いているのは実は12日なのだ。)「謝意」などとおっしゃるより、「皆で祝ってくれてうれしい。ありがとう。」とおっしゃれば良いのにと思ったものだ。 二千年も経っても、未だ「やまと言葉」というか「和語」というものがフィーリングとして我々の中に遺されているのは凄いことだと思う。 つまりは、「憾み」と書くとすんなり読めないから、「えーと、立心扁に感じるだから、心に感じる???」と理詰めに考えてしまい、結局和語に漢字を当てはめたものは中々読めないのだ。 と、こうすればこの「難読漢字を読む」ゲームは、元々の和語に外国渡来の漢字を当てはめるというのを高レベルの問題に配するという作戦で作られている事が分かる。 こうしてちゃんと自分が苦戦した弁明をしておいて、更に言えば、漢語由来の日本語は語感としては、中性化した無味無臭の言葉だとなるだろう。 これを上手く利用しているのが議員や官僚の答弁だ。 「すみません。本当に許してください。」と云う代わりに「・・・についてはまことに遺憾に存じます」と云えば、意味は伝わるが、聞いている方としては「心がこもっていない」、「こいつ、本当に謝っているのか?」という感じを受ける。 「実現に向けて鋭意奮励する所存であります」というのは、「一生懸命頑張って何とかやり遂げますから」と云えば良いのに、漢語を使うことで何となく個人としては責任を逃れている雰囲気がある。 「内心忸怩たるものがあります。」というのは、「心の底から恥ずかしいです。」というのと較べて、言葉の重さという点では伊藤美咲と小錦ほどの差がある。 だから、本音を隠して一応取り繕っておこうという時には漢語を多用すれば良いのである。つまりは政治家や官僚には漢語は大変に便利な道具である。 自民党は与党だった時は、特に閣僚は漢語を使い放題使っていた。それが先頃の選挙で下野したら、この間まで閣僚だった人が国会の論戦の場ではやたら和語を使うようになったから可笑しい。一方の民主党は逆になった。由紀夫さんも本気で初志貫徹するお積りなら、「私の献金問題には個人として忸怩たるものがあります」などとおっしゃらない方が良いと思う。 そういえば、結婚しようと持ちかけて、何人もの相手の男性から多額の金を巻き上げたり、それどころか睡眠導入剤(要するに「睡眠薬」のことだと思うが?)を飲ませて殺害した疑いを持たれている女性の事が話題になっている。被害に合った(と思われる)男性の中には堂々とシルバーパスを持ってバスなどに乗れるお歳の方も居るし、半端どころじゃない金額を貢いでしまった方もいらっしゃる。 警察の方も未だ容疑を立件できないのだろう、件の女性の写真などは公開されていないが、これが事実だったとしたら稀代の「男たらし」の名に恥じない、相当の美形だろうとつい推測してしまう。その容姿を是非拝見したいものだ。 私もそんなに上手く行くのならやってみるか、と思わなくもないが、仮に件の女性ほど若かったとしても私の容貌や話術では到底無理だろうと、既に始めから諦めている。 それが、このニュース報道の初期の段階から、彼女は「オンナ」と呼ばれている。「女性」ではなく、和語の「おんな」である。これは早い頃から耳に引っかかって気になっていた。何しろあの謹厳なNHKのニュースでも、「被害者には以前から交際していた女性が居り」ではなく、「・・・交際していたおんなが居り」なのである。 こうなると、「ははぁ、未だ容疑者とするに足る証拠はないけれど、警察でもその女性が九分通り怪しいと思っているな。しかも相当自信があるな。」と感じてしまう。 つまりは、無味無臭な漢語ではなく、和語が使われる事がそれ自体一つの情報になっているわけである。 夏目漱石は、日本の話し言葉に漢字を当てはめて妙な熟語を発明する達人であった。今度はそういう言葉を集めてきて、件のゲームのレベル6をお作りになったら如何かと愚考する、いやロクでもない事を考えたりしてみるのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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