カテゴリ:日ノ本は言霊の幸はう国
◇ 11月23日(月曜日) 旧十月七日 壬申(みずのえ さる) 仏滅: 勤労感謝の日
【勤労感謝の日】 日本の勤労感謝の日は、奇しくもアメリカの祝日で収穫を感謝するThanks Giving Dayと同時期の祭日である。しかし、Thanks Giving Dayは、日本の勤労感謝の日とは何の関係もない。勤労感謝の日は、元々は新嘗祭(にいなめさい。しんじょうさいとも読む。)という、日本の伝統行事で、その歴史は飛鳥時代の皇極天皇の頃にまで遡る。 これは歴代天皇の国事行為の一つであったが、他の諸々とご同様にアメリカ占領時のGHQの政策によって新嘗祭としては廃止となり、代わって勤労感謝の日となった。 「勤労を尊び、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」と、祝日法にはその趣旨が記載されている。 アメリカのThanks Giving Dayは収穫(生産ではない)には感謝するが、勤労に感謝する意味はない。 つまり、アメリカはやはり成果主義で、日本は成果をもたらす勤労という過程も評価する。 ・・・そういう事かなぁ。 【使い捨てライターの行く末】 ニュースを観ていたら、使い捨てライターの安全性の見直しをするのだという。 つまり、使い捨てライターは廉く便利な所為で非常に普及している。簡単に手に入れられるし、同じ理由で方々に置き去りにもされる。それを子供が手にして遊ぶと危険だし、火事にもなりかねない。だから、子供が簡単に火を点けられないように、構造を改良する。と、云うことらしい。 担当は消費者庁と経済産業省で、このほど専門家を招いて第一回の会合を開いたのだそうだ。 へぇ、使い捨てライターの専門家なんてものが居るんだ。どんな人たちかはちょっと興味があるなぁ。でも、私はそういう人たちとは余りお友達になりたくない。 昔の理科の時間では、人間は直立し、火を使い、道具を使い、言葉を獲得したことで、他の動物やサルより優れた存在になった、と教わった。道具は今ではサルどころか、ある種類の鳥も作って使うことが知られているから、この点では人間は彼らより最早優れているわけではない。 しかし、火の方はまだまだ人間の専売特許であろう。オランウータンが焚き火をしている姿は目撃されていないし、カラスが焼肉をして宴会をやっているというニュースも未だない。 昔は火を熾すのは大変だった。苦労して工夫して熾したり、山火事の残り火を貰ってきたりした種火は随分大事に守っていた。だから人は火に神聖なものを観て、神性の象徴として崇めたのだ。 それが百円ライター(最近の百円ショップでは百円でライターが二三個入っているものも買える)で、実に安直に火を使えるようになったから、これは随分便利になったし、一方で火の持つ神性も薄れた。 それにしても、先人が苦労した火を簡単に熾せるようになったライターをわざわざ使いにくくするというのは、変ではないか。 安全性を高めるといえば、火を点けるには一連の複数のアクションが必要な構造にするとか、何らかのロック機構を設けるとか、いずれそういうことになるのだろうが、最近の子供を侮ってはいけない。そんなバリアーなど易々と突破してしまうのが今の子供たちだ。それは、流行のゲーム機などを見れば歴然としている。 むしろ点火機構を複雑にして困るのは大人の方ではないか?年齢が上に行くほど機械操作は苦手になる。新しい機構には中々馴染めなくなる。操作を覚えてもすぐに忘れてしまう。 あなたは自分の携帯電話の機能をフルに使っているだろうか?そう考えれば「子供が使いにくい使い捨てライター」とは如何に難しいチャレンジだろうか。 あまりそういう追求をしてしまうと、その内今度は「高齢者用の使い捨てライター」を開発する必要が生じると思う。 「安全性を高めるために使いにくくする」という考え方が、そもそもおかしいのではないか? 私の子供の頃までには(そして私の年齢が多分最後の世代だろうと思うが)小学校の工作の時間では「肥後の守」というナイフを普通に使っていた。板金で拵えた鞘の端の突起を押すと小刀の刃が出てくる。それで、鉛筆を削ったり工作の素材を切ったりしたものだ。 無論立派な小刀だから怪我をするチャンスもある。使い方を誤れば立派な武器にすらなる。しかし、あの頃、「こんなものを子供に使わせるのは危ないから止めさせろ」という声は有ったろうか? むしろ、危険なものだからちゃんとした使い方を教える、という事ではなかったろうか? 実際には、その後小刀は学校の工作の場からは姿を消した。これはPTAの圧力だったか、文部省の指導方針だったか、あるいはその両者だったか? その結果今の子供たちは小刀を持たせても鉛筆も削れなくなった。 子供たちが成長して出て行く社会は危険に溢れている。ナイフもライターも、その他の危険物も山ほどある。そうなった時にそれまで無菌状態に馴らされてきた子供たちは上手く対処が出来るはずもない。 実戦経験のある兵士は、殊更に武器の取り扱いには慎重であるそうだ。狩猟家や刃物を使う職人も同様だという。それは刃物や武器の便利さと共にその恐さを知悉しているからだ。 子供たちにそういう訓練をしないでどうする。それどころか殊更にそういう「危険物」から遠ざけて、安全だとする考え方は如何にもその場限しのぎのいい加減ではないか。 子供が何れ単独で危険に直面した際に、ちゃんと対処できるようにするのが、教師の、親の、そして大人の責任ではないか。その為には子供がひょっとして怪我をするかもしれない危険を大人の側で負担する覚悟が必要だろう。道具とは便利さと危険を兼ね備えたものである。 それをしないで、遠ざける、或いは使えないようにする、使いにくくすることで解決しようというのは如何にも姑息だ。大人の責任回避である。 ましてやそのために「専門家の委員会を作る」なんて、必殺仕分け人は科学技術予算を絞る前に、そっちの方の「無駄なお節介」のための予算も削るべきだ。 違いますかね? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.11.25 00:35:01
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