カテゴリ:よもやま話
☆ 1月3日(日曜日) 旧十一月十九日 癸丑(みずのと うし) 大安:
【恐竜と人間】 元日の昼下がりの北の丸公園で、我が掌から我勝ちにパンくずを奪い去っていった雀の祖先は恐竜である。 恐竜は三畳紀の末頃に出現し、白亜紀の末までの約二億年もの間、他の生き物たちを圧して地球上に君臨した王者だ。人間との対比において、いささかの反省もこめて、恐竜がよく引き合いに出されるけれど、私はこの比較はあまり妥当とはいえないと思う。 先ず恐竜は他の生き物から見れば恐るべき存在であったが、当時の食物連鎖の最上層を寡占したというだけで、周囲の自然まで改変する意図も無かったし、実際そうしなかった。 それに対して、人間は生き物としての分限を越え、他の生き物のみならず周囲の自然に至るまで自らの意図に沿うよう改変して、地球全体に君臨しようとした。 どうもこの傾向は、人間が農耕というものを発明したころ、つまり約一万年前から顕著になったようだ。森林は農作業の邪魔になるから伐採され、じくじく湿って作物の育成に向かない土地は、別の土地の土砂を削り取ってきて埋め立てられた。自然に生えていた草は雑草とそうでないものに分類され、虫や動物も益虫・害虫、益獣・害獣と区別されるようになって、「害」の方は積極的に駆除された。その内、肥料となる自然物を廃して、無機物から化学的に合成された肥料を使うようにすらなった。 食物といっても所詮は他の生命である。ただ自然のままのそれでは「無駄が多い」として、「もっと効率的に」するために、遺伝子の取捨選択に関与し、より凝縮された栄養分を効率的に育て収穫できるようにした。これを人間の言葉で育種「改良」という。 流石に最近はやり過ぎに気持ちが咎め、「自然を守ろう」という機運や、特定の動植物に対して保護運動が活発になってきてはいるが、それでも「牛や豚は神が人間にもたらしたもので、屠殺しても良いけれど鯨はダメだ」という、甚だ身勝手なレベルに留まっている。 恐竜も他の生き物も、つまるところは人間と同じで、本質的な動機は生命の維持と種族の存続である。つまりは摂食と繁殖だ。しかし、彼らは生き物の分限をあくまでも越えることなく、大局に於いては、わが身と種族の運命を自然の大摂理に委ねている。その大局の中で、いじらしくも健気に生きている。そこにはある種諦念に通じるものがあり、だから美しい。 人間はその点で、生き物の分限を越えてしまったのだ。その点同じ王者とはいえ、恐竜とは大違いである。 さりとて、人間のあくなき活動を一概に否定できるものでは無い。べんべんと運命に身を委ねるのは、地球上で初めて抽象的な領域にまで広がる智慧を獲得した生き物としては、如何にも不甲斐ない。何より、今生きているあなたも私も、そういうあくなき活動の賜物なのだ。 日高先生のおっしゃった印象に残る言葉に「人里」というのがある。良い言葉だと思う。 最近は方々の川に蛍が戻ってきたという。しかし、それは単に川の水が澄んだからではない。第一蛍の餌になるカワニナという巻貝は、澄んだ水には棲めない。適当に水が汚れていないとカワニナの餌になる珪藻が育たない。そして珪藻は川岸の木立からの落ち葉が無いと発生しない。そしてその落ち葉は・・・という具合で連鎖は続く。 似たような話はマツタケにもある。マツタケは自然のままの松の原生林には生えてこない。人が入って落ちた枝を拾っていったり、下草を刈ったりして風通しを良くしてやらないとマツタケは生えてこない。つまりは「里山」だ。 人間は智慧を獲得したのだから、それを自らの生活と同属の繁栄の為に使用するのは、悪いことなどでは無い。しかし、生き物としての適度の分限は守るべきものである。その微妙な折衷の結果が「人里」であり「里山」である。日高先生のおっしゃったことは、そういうことだろうと思う。 恐竜はその繁栄の頂点にある時でも、自ら全く意識しないで人里ならぬ「恐竜里」とでもいう処に自ずと暮らしていたのであろう。その点はライオンでも象でも熊でも同様である。 王国の王者として、恐竜と人間が最も異なる点はその種の多さである。人間は実はこの地球上で非常に孤独な生き物なのだ。 一口で恐竜といってもその種類は非常に多い。数えたわけではないけれど、その時代毎に、少なく見ても数百種類の「恐竜」がいたようだ。それが、栄枯盛衰を繰り返しながら約二億年の繁栄を全うしたのだ。 それに較べて人間は、一属一種の生き物だ。人間の祖先がチンパンジーから分かれたのは約500万年前の事らしい。当時の人類は数種類の近縁種族によって構成されていた。それが二万数千年前に、近縁種であるネアンデルタール人の最後の一人が死に絶えて以来、完全に孤独な生き物になった。 人間には黒人や白人、そして黄色人種もいるじゃないかとおっしゃるなかれ。これは同じ種の中の小さなバリエーションに過ぎず、「人種」という言葉は生物学的には最早完全な死語である。 人間のルーツは東アフリカの母に収斂するのだそうで、少し前に「ミトコンドリア・イヴ」として喧伝された。(この辺は「イヴの七人の娘たち」Bryan Sykes著、ソニーマガジンスで面白く読めます。最近ではヴィレッジ・ブックスという文庫でも出ているそうです。ついでに言えば同じ著者の「アダムの呪い」も読んでいただきたい。これは男女平等の見地からのお勧めです。) つまりは、人間は黒人をルーツとし、その一派が追い立てられたか、探究心が盛んだったかして北に移動し、その過程で不要なメラニン色素が失われ、冷たい空気がいきなり肺に流れ込まないように鼻が高くなった。 つまり、人間という種族は地球上に唯一種類しか存在しない孤独な生き物なのだ。地球開闢以来一属一種の動物が、これだけはびこったのは初めてのことだという。そうなると、人間が滅びた場合、一属多種であった恐竜のように、直系の子孫を残すことは絶対に不可能である。 我々が滅びた後(そして我々は必ず滅びるであろう。後一億年以上も繁栄を続けるなどとはどうしても考えられない。)、我々の子孫が北の丸公園で誰かの掌から餌をついばむなどという事は起こり得ないのだ。 元日の拙ブログ(シニアコムに掲載した「元日醒夢」。同じ内容は楽天ブログにも掲載。)に「浄玻璃の鏡」さんという方からコメントを頂戴した。 曰く、「日本の政治家に欠けている致命的欠陥として、国際社会における日本の役割とか、その変動に対する日本の対応の仕方など、国際社会の現状と動向に対応して行く姿勢や、国民生活に影響を及ぼしている国際的な政治・経済の事象と政策との関連性など国家としての説明責任が疎かになっている事です。」 まことに仰せの通り。 しかし、この「国際性」とか「国際社会」には少し考慮を要すると思う。 人間の料簡の狭いうちは、これは「他国の事を慮る。」とか、「多国間の動静を考慮する。」とかで済んだと思う。しかし、今やそれだけでは事足りない。 ひとりCO2や温室効果ガスを減らせば「地球を救える」などとおこがましい。ましてや、それを国際間の取引にしようなどとは・・・。 一属一種という孤独の存在でしかない人間としては、「国際」という感覚はもっと拡大して地球全体、或いは宇宙の中の地球、或いは生命・人間という視野で考えるべき時である。そして、こういう思想は、現在主要国の大半が占める一神教の世界観では、その境地に到達するには大いに困難が生じる。本質的に多神教の精神を奥底に宿している我が日本人こそが、これをリードすべきであるし、リードし得る。 アメリカでもロシアでも、一神教に囚われた彼らは、宇宙にまで出かけてやっと、「地球は蒼く美しく神々しいものであった」とか言って汎世界的な視野を獲得する事が出来た。それに引き換え、我が日本人はわざわざ宇宙まで行かずとも、初日の出に手を合わせ、神社に詣で、ナマハゲに脅され、田の神、火の神に祈るなどして、ごく身近に八百万の神々を感じることができる。 新たに求められる「国際性」に対する素質はもともと充分に持っているのだ。 大局に於いてはこの新たなる「国際性」を更に進めて高い理想を示し、小局に於いては細かい手当てを怠らない。これこそ我らが、そして我らの政治家も希求すべき道であろうと思う。 そして政治の世界では、かつての自らの罪過であった金権問題を他に転嫁し、相変わらず内閣総辞職に追い込むだの、衆議院解散を実現するなどとほざいている連中に、これを望むのはどだい無理だ。微かに期待できるとすれば由紀夫さんだ(小沢さんでは全く無い!)。そして、何より我々自身でもある。 我々が、先達である恐竜に少しでも見習うとすれば、そういうことである。 【ALMA計画】 予断だが、ALMA計画というのが日米欧の国際協力でいよいよ動き出すようだ。 これはチリのアタカマ砂漠という、年中ピーカンの地に、小さな電波望遠鏡を数多く(最終的には66台以上にもなるそうだ)並べて連携させることで、巨大(合成口径という)な電波望遠鏡を作り上げ、宇宙からやって来る微弱な電波を観測しようというプロジェクトだ。最初の段階でも、東京から大阪の一円玉を識別できるほどの分解能だそうだ。 このプロジェクトの大きな目的は、宇宙の何処かに漂うアミノ酸を捉えることだそうだ。これは言い換えれば地球外の生命の探索と云う事である。 かつての王者恐竜と異なり、一属一種の孤独な存在である人間は、その寂しさによって、宇宙に自らの仲間やルーツを求めようというのである。これは今後いよいよ我々の喫緊のテーマとなる新たな「国際性」の探索といえるではないか! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.01.05 15:59:03
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