カテゴリ:小言こうべえ
☆ 1月29日(金曜日) 旧十二月十五日 己卯(つちのと う) 友引:
予め。 私が「オバサン」とか「オバチャン」という時、全ての中高年の女性を意味するのではありません。 親類などに対する際は「叔母さん」とか「伯母さん」と漢字だし、これを片仮名にしても平仮名にしても、それは親しさの表現だ。 「オバサン」や「オバチャン」は、軽侮の対象としての中高年女性のことだ。 日本語の言葉を片仮名にすると、揶揄する雰囲気が付加され、深刻な意味は希釈される。 「バカ」というのは、漢字で書く「馬鹿」とは異なる。「バカ」になると少し軽い意味になる。苦笑しながらの表現になる。或いは、軽くたしなめる雰囲気も出る。「イヤンバカン」と来れば・・・・。 そういう点では「秘密」も「ヒミツ」とは異なる。「ヒ・ミ・ツ」と云えば、後にハートマークでも付きそうだ。 ともあれ、「オバサン」や「オバチャン」の話である。 今日、違うホームに来る目的の電車のため、丁度やって来る気配のエレベーターに乗ろうとした。エレベーター前には、オバチャンたちが数人。皆それぞれに荷物をぶら下げ、エレベーターのドアの正面に立ち塞がっている。 程なく到着したエレベーターのドアが開くと、件のオバチャン達は悠々と乗り込んだ。その内ドアが閉まりかかったので、私はやや慌てて乗り込む羽目になった。私が乗ったことで、小さなエレベーターの中は混雑気味になった。すると、オバチャンの一人が「このエレベーターは、健康な人は乗っちゃいけないのよねぇ」とのたもうた。すると、別のオバチャンが「そうよ。そのはずよねぇ」と応じた。 どうも、私がドアの閉まり際に、少し押し込み気味で乗ったことを非難しての発言だったようだ。一応「失礼!」と声をかけて乗ったのだけれど大声ではなかったから、難聴気味の(きっとそうだ)オバチャンには無視されたようだ。 私には実は痛風の気がある。痛風とか偽痛風というのは、色々な原因があるけれど、それは本題で無いから触れない。但し、よく「王者の病」とか「贅沢病」とか云われるけれど、それは原因のごく一部でしかない。現に私など、王者でもないし、贅沢なんかしていないのだ。それだけは云っておきたい。 この病気は普段は健常者と何ら変わりは無い。その代わり痛くなると強烈に痛い。プリン体という微小な折れた鋭い針に似て如何にも痛そうなものが、特に関節周辺に沈着するのだから痛いわけだ。関節といっても足の親指だけでは無い。ひざの関節の辺りにこれが沈着すると、痛みと共に炎症を起こし、水が溜まって歩行も出来ない。 このところ私は足首の辺りに炎症を起こしていて、足首を屈伸する階段の昇り降りが特に辛い。 しかし、私も大和男子の端くれだから、痛そうな顔をして同情を買うことはしない。痛くても普通の表情で平気を装う。これこそ匹夫の矜持というものだ。だから余り人に気付かれることは無い。特に私は普段毅然として、常に怜悧・冷静を保っているから(大げさです。すみません。)余計に気付かれにくい。 最近はどこの駅でも、構内にエレベーターやエスカレーターが設置されるようになったのは、こういう時には非常にありがたい。 皆さんも駅構内でエレベーターに乗ったら、必ず注意を払って後から乗ろうとする人がいないかどうか確かめ、若しそういう人が居たら、一見健常者に見えても、ドアの「開」ボタンを押して待っていてあげてください。 今日もそういう状況下で、やってきたエレベーターに、ほっとして乗り込んだものだ。 そしたら、上のようにあてつけがましい事をオバチャンに云われた。「アンタに何が分かるのか!」と思ったけれど、冷静な紳士としては相手にしなかったのは言うまでも無い。 それで、唐突に思い出した。 随分以前(多分私が小学生の頃のことだったと思う)、故郷の町の市民会館で何かのイベントがあって、今は亡き母に連れられてそれを観に行ったのだ。イベントの中身は忘れたけれど、若者にも人気があったようで、市民会館の前には若者たちも行列していた。私たちの付近にも女学生が居て、その中の一人が行列の順を乱して「横入り」をした。(少なくとも母にはそう見えたらしい)すると、元学校の教員だった母は、「ちょっと、横入りは止めなさい!順番を守らなくちゃダメでしょう!」と一喝し、「全く、学校で何を教えているんだか!最近の学生は本当に常識が無いんだから!」と続けた。 云われた女学生は傷ついた様子で「私はちゃんと並んでいました」と小声で弁解したけれど、やがて居辛くなったのか列を離れてしまった。 私は子供ながら、「あんな風に決め付けられて、可哀相に。お母さんももう少し言い方があるだろうに。」と思ったのを良く覚えている。 つまり母はその時典型的な「オバチャン」だったのだ。 「オバサン」や「オバチャン」の論理に共通するのは、こういうことである。 (1) 先ず相手を責めたり非難する際には、自分という存在を希釈する。 これは当事者としての自分を目立たなくすることだ。だから、周りの人間に同意を求めたりして、「私だけじゃないよ。皆が同じ意見なのよ。皆がそう思っているのよ。」と徒党を組み、発言責任を他に転嫁したり、「集団責任」にしてしまうということだ。 (2) Big Wordを使って、反論を封じ込もうとする。 これは、上の例で言えば「構内のエレベーターには健常者は乗ってはいけない」という制度(間違っているけれど)を持ち出して「制度」の権威を借りるのがそうだ。母の例で言えば、「常識」の欠如や、学校教育の所為にしたのがそうだ。常識はいつも正しいものでは無いし、学校教育の何が理由なのかはどうでもいいのだ。 (3) 話の適用範囲を拡大する。 エレベーターでの話は私個人に関る事だし、母の例は件の女学生個人の問題である。それを「健常者」とか「最近の学生」と複数に拡大してしまうのは実にずるい。言われたほうは、何となく健常者や最近の学生の代表にされてしまい、釈明や説明をしようにも、それが封じ込められてしまう。 エレベータの場合には私が健常者であるかどうか、オバチャンには分かりっこないし、どうせ分かる積りも無いのだ。女学生の場合だって、横入りが事実かどうか、或いは横入りがあったとして、それには何か事情が有ったのかどうか、本来はそれが問題である。何も彼女を「最近の学生」の代表にして、最近の学生の所業まで彼女の所為にすることなどはない。 こういう「オバチャン論理」は実は先の戦争当時にもあったのだ。 国防婦人会とか愛国婦人会とかいう団体が有った。(私は実見したのではありませんよ。歴史で教わったり書物で知ったのです。私はあくまでも「戦後世代」ですからね。) パーマ(古い!)をかけるのは非国民だ!といって、元々天然パーマ(これも古い!)の女性まで糾弾した。国防服(又々古い!)でなく和服を着ていると、「戦時にも拘らず風紀を乱す非国民」となじった。 「兵器や砲弾を作るために家庭の鍋釜をお国に拠出し奉仕しましょう!」といって、批判的に出さなかったり、或いは事情で出せなかった人を、やはり非国民だと白眼視した。この場合「奉仕」がBig Wordだ。因みに拠出された鍋釜やお寺の鐘の殆どは結局役にも立たず、ゴミとして捨てられたそうだ。 これらに共通するのは、「国防」、「愛国」とか「奉仕」という、議論の対象にしにくい、また反論・反対もしにくいBig Wordsを嵩に着て周辺の人々を糾弾し、心理的に圧迫し、結果として軍国主義や、どうしようもない戦争に対する健全な抵抗や批判を奪ったのだ。 まさに「オバチャン論理」はそういう危険を内包するものである。 こういう「オバチャン論理」は、何も駅のエレベーターや市民会館でのイベントだけに見られるものでは無い。戦争中のことでも無い。最近は国会議員も同じ事をやっている。 暫く前から通常国会が開催され、その質疑の模様はテレビやニュ-スでも報じられている。 それを観ていて思うのは、その品格のなさである。オバチャン論理の横行である。 質問者(この場合先ず間違いなく元与党の人たちです)は、声高に「・・・に付いては、国民が皆不満を持っているのです!」と総理大臣や閣僚に詰め寄る。聞いていて「別に私はそうでもないけれどなぁ。国民皆っていうからには私も入っているはずだが、変だなぁ。」と思う。「この質問者は、本当に国民皆といえるだけの根拠や自信があるのだろうか?」とも思う。 「じゃぁ・・・が出来ないのなら、責任を取って辞めますね。」などともしつこく問い糺す。それに対して、「必ずやるという決意で居るわけですから、今から出来なかったら辞めるという事など申し上げられません。」と総理や閣僚は答弁する。そりゃぁそうでしょう。 質問者に若し受験生がいて、合格を目指して一生懸命勉強しているとしよう。質問者はその子供に「頑張ってね。ちゃんと応援するからね。」という代わりに、「試験に落ちたら、責任を取ってもう受験はやめると今から約束しなさい。」と迫るだろうか? 「・・・の時に受け取った株券は何株でしたか?それはいつでしたか?・・・」などと、矢継ぎ早に微に入り細にわたって記憶テストみたいなことをする。(しかも一問一答みたいにしてやるから、質問された人はその都度席を立って答弁台に行って又席に戻るという、体育会系のしごきのような目に会わねばならない。)予め質問の最終主旨を明らかにしていないし、しかも答えは全て質問者が既に調べて知っていることばかりだ。そして、最後に「私が聞いているのはそんな事ではないのです。あなたの倫理意識、見識を問うているのです。」といきなり「愛国」や「国防」、「常識」と同じレベルに持ち上げてしまう。 そして最後に又、「国民は皆それを知りたいと思い、不安に思っているのです」と拡大してしまうのだ。 本当は、質問者は相手を貶め、自ら又は自らの属する勢力を善なるものとして際立たせようとする意図であることは、それこそ国民の誰でも自明のこととして、とっくに分かっているのだ。 一方では政治倫理とか見識とか理念とかいった見地で、それが欠如していると論難しておきながら、先日の首相の所信表明演説で「命を守る」とか「友愛」といった、それこそ理念的なことが表明されると、今度は「あぁいう理念的なことばかり云われても、国民の関心とはズレているとしか云えない」などと非難する。 これなど、まさにオバチャン論理の応用の最たるものでしょう? 誤解の無いように申し上げておくと、私は何も民主党員ではないし、民主党の政策に諸手を挙げている訳でもない。政治資金問題にしても、必ずしも民主党の対応を是とするものでも無い。 国会はわが国唯一の立法府だ。センセイと呼ばれる選良たちが、思慮と見識、そして何より個人として、更に被選出者としての責任を持った上で、議論を戦わせ、時に代案を出し、又原案を修正して、最終的にその時点での最善の政策を、法として実現する場所である。 そういう場所で、かつての与党として、長きにわたって施政権を駆使してきた勢力が、実態としてオバチャンの集団としてしか機能していないように見えるのは大問題だと思うのだ。 こういうことを国民の前に曝していると、もっと強烈なオバチャンたちばかり増えてくるぞ! 国会議員たちは最近は良く「この模様はテレビで放映されているのです。だから・・・は国民の前に責任を以って・・・」という場合が多い。 そこで申し上げる。 テレビで放映されているのは答弁だけではありません。あなたの質問する様子も放映されていることをお忘れなきように。余りお粗末だったり、下品だったり、オバチャン論理を振りかざしたりしていると、国民の教育上良くありません。その場合教育責任を取ってもらいますよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.01.30 17:56:48
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