カテゴリ:よもやま話
☆ 2月6日(土曜日) 旧十二月二十三日 丁亥(ひのと い) 仏滅: 下弦
「ブログ友達」の「釈迦楽先生」が、J.D.サリンジャーに関するブログを書いていらした。 サリンジャーは「ライ麦畑でつかまえて」という作品で(そしてこの作品のみで)有名だが、今年の1月27日に亡くなった。釈迦楽さんのブログはサリンジャーの追悼の意味もあった。 ライ麦・・・は、青年たちの間で大人気になったが、その後自然に沈静化して行った。サリンジャーはこの小説の他に見るべき作品を遺していない。 釈迦楽さんも多くの青年と同様、一時はこの作品に傾倒されたそうだが、その後は蔵書の一冊として書棚の一隅を占めるだけの存在であったらしい。 この物語は繊細な感覚を持っている主人公ホールデンの語る二日間の物語だが、大方の読者青年は彼の姿に自らを自己投影してしまい、それが故に耽読し、傾倒することになりがちであったように思う。釈迦楽先生は、これを青春期の「文学的麻疹」だとおっしゃる。しかし、人間は誰しも変化していくものだし、特に青春の時代はその変化の速度が激しい。いずれこの麻疹は治癒してしまい、誰もがライ麦・・・を卒業していく。 一方の作者の側からすると、こういう路線は永続し難い。だからサリンジャーはこれ一作で後が続かず、生涯一作のまま逝ったのだと。 それで、ルーシー・ボストンを思い出した。 彼女は、イギリスはケンブリッジの近く、ヘミングフォードグレイという田舎町に1982年に生まれ、60歳代になってから児童文学を書き始めた。 「グリーン・ノウ物語」である。 これはボストン夫人の住むヘミングフォードグレイのマナーハウスを舞台とし、「グリーン・ノウの子供たち」から「グリーン・ノウの石」までの全6巻で構成される。イギリスの小さな田舎町に住むおばあさんを訊ねてきたトーリーの冒険物語で、周囲の自然やそこに住んでいた人たちが、美しくも幻想的に語られる。分類すれば童話である。 私は大人になってから読んだ。最初は評論社から出ている翻訳で読んだが、暫くして英語で読んでみた。そしたらこれが、ちゃんとした英語で書いてある。「ちゃんとした英語」とは、日本の童話に良くあるように「子供向けの言葉」ではなく、むしろ古風で典雅ともいえる英語で書かれてあるのだ。しかも、巻が進むたびにその英語が少しずつ変化している。英語も主人公と共に段々大人になっていくようなのだ。 ボストン夫人は、マナーハウスの庭の手入れと共に、美しいキルトの作成者としても知られる。キルトは(私自身はやった事は無いが)一針一針の積み上げであると共に、常に出来上がりの全体の構図を頭に置いていることが必要なのだそうだ。つまり戦略が必要なのだと。 ひょっとしたらボストン夫人は、グリーン・ノウ物語を綴るにおいても、キルトと同様戦略的に、徐々に言葉を変えていったのかもしれない。 それで、彼女の「グリーン・ノウ物語は」麻疹ではなく、大人になってからも読み継がれる作品になったのかもしれないと思うのである。 子供に対するに幼児語を使うのではなく、大人の言葉、それも現代語というより古雅なオーソドックスな言葉を用いる。この辺はやはりイギリス人の見識といえるのであろう。 日本では、子供に幼児語を使うのはむしろ当たり前だし、老人に対してまで幼児語を使っている。これを深く考えるとすれば、結構深刻な問題が出てきそうにも思える。 J.D.サリンジャーの訃報、釈迦楽さんのブログ、ルーシー・ボストン夫人、言葉遣い、・・・それでこんな連想になった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.02.08 13:25:22
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