カテゴリ:よもやま話
☆4月4日(日曜日) 旧三月二十日 甲申(きのえ さる) 先負: キリスト教国では復活祭 Kさん; Sさんから、「散りきらない内のお花見の誘い」のメール連絡があったこと、あなたにもコピーしてお知らせしました。 その中であなたのことに言及して、「郷里の作楽神社に因む『天莫空勾践 時非無范蠡』という言葉があります。Kさんにも是非我々の范蠡候補として、ご参加を誘ってみてください。」とありました。 幸い、当日はあなたも少々遅ればせながらも参加するとの連絡を戴いて嬉しく思います。 さて、そうなると「范蠡」です。何しろあなたは「范蠡候補」に挙げられたのですから。 現代っ子のあなたの事だから、范蠡なんて多分ご存じないでしょう。私もこの言葉は随分久しぶりに聞きました。此処で簡単に説明しておきますから、范蠡としての役割を受けるにしても、断るにしても、Sさんには堂々と造詣の深いところを見せて、当日はちょこっとばかり良い気分になってください。何しろSさんは雑学の大家でインテリ好きだから。 先ず「范蠡」は「はんれい」と読みます。中国の昔の人の名前ですから、中国で実際に「hanrei」と発音していたはずは無いのですが、一応ほかの漢字と同様「日本風」の読み方(音読み)です。 中国には、古くから「天莫空勾践 時非無范蠡」という詞があり「范蠡」はこの中に出てきます。これは「天、勾践(こうせん)をむなしゅうするなかれ。 時に范蠡(はんれい)無きにしも非ず。」と読み下します。 中国の昔、「春秋時代」という頃(紀元前770年から紀元前402年。大昔だ!)のこと。この頃中国では幾つもの王朝が争い交替した不安定な時代でした。 この時代、越という国には、「勾践(こうせん)」という王様がいましたが、越は呉という国との戦に負けてしまいました。敗戦国の王となった勾践はクサってヤケになっていましたが、范蠡(はんれい)という忠臣がこれを励まし、奮励努力をして、とうとう呉の国を打ち負かすことが出来ました・・・そうです。 この事から、「天莫空勾践 時非無范蠡」は、「運に恵まれず、不遇をかこつていても、嘆いたり悲しんでばかりいてはダメだよ。その内范蠡さんのような頼りに出来る人が現れて、きっと力になってくれるよ。」という意味の詞になったのです。 ま、「人は人の信頼と力によって支えられているものだ。己一人の不運と思っていても、良き人を得れば解決できる。」というようなことですな。 さて話は変わって、日本には鎌倉時代(1330年代)に、後醍醐天皇という方がいらした。 この方は、色々な事情から、言ってみれば「短期リリーフ」として天皇の位に就いたのだけれど、ご本人は、そんな事情にもかかわらずやる気満々で、貴族の序列にとらわれない能力主義による人材登用を実施するなど、様々な改革を断行しようとした。 官僚を排除し、各界から広く人材を集め、行政改革を断行して政治主導を確立する・・・。いつの時代でもこういう人がトップに就くと、旧勢力からは疎んじられるもので、京の都の保守派の坊さんや貴族など様々な連中を初め、時の軍事政権を仕切っていた鎌倉幕府からも、後醍醐天皇を辞めさせようと圧力が強まった。 それで鳩山さんじゃない(!)後醍醐天皇は、「この際諸悪の元を断たねばならない。そのためには旧勢力の打倒だ!」と、小沢さんじゃない(!!)鎌倉幕府を潰す計画を立てるのだけれど、腹心の部下として信用していた吉田定房という人がこの計画を、小沢さん、じゃないって(!!!)幕府方にチクってしまった。その結果、幕府は直ぐに後醍醐天皇をクビ(廃位)にして、代わりに光厳天皇を朝廷のトップに据えてしまった。 政争に負けた後醍醐天皇は、京都を離れ、隠岐の島(島根県)に流されてしまうのだけれど、その途中天皇の忠実な部下であった児島高徳さんという人が天皇を救い出そうとしたが出来なかった。 そこで、児島さんは、天皇が落延びる途中で宿泊していた、美作(みまさか)院の庄(現在の岡山県津山市、Sさんの郷里です)の宿に、監視の目を逃れて忍び込み、庭にあった桜樹の幹を削って現れた白い木肌に、「天莫空勾践 時非無范蠡」と書いて天皇を慰め、励まそうとしたのだそうです。 「後醍醐天皇さんよ、昔の中国の勾践王のように落延びる境遇になっても、嘆くことはありませんよ。きっと范蠡のような頼もしい部下が現れて助けてくれますよ。」という意味を込めたのですね。 実際のところは、こう書くことによって、児島さんは自分をちゃっかり天皇に売り込んだのかもしれない・・・!? 隠岐の島に流された後醍醐天皇は、やがてどうにか島を脱出して京都に戻ったけれど、再び拙い事になり、それでも自分が正規の天皇だと主張して、結局京都の南、奈良県の吉野辺りに朝廷を開いた。これを南朝といって、京都にある朝廷(北朝)とが競合しながら並び立つ南北朝時代になるのです。このあたりの経緯は、最近の政治の世界に似ているところがあって、随分ややこしくも面白いのだけれど、それはここでの本題ではないから省きます。 さて、後醍醐天皇のお宿になった「院庄館跡」は、作楽神社として1922年(大正11年)に国の史跡に指定され、1973年(昭和48年)以降津山市教育委員会によって発掘調査が行われました。境内は整備され、百本ほどのソメイヨシノが植えられて、以来津山市の桜の名所の一つになっているのだそうです。 地元では、「桜ほろちる院庄、遠き昔を偲ぶれば・・・」と言う歌が花見の時には良く歌われるそうですが、上のような歴史があるのですね。 また、作楽というのは桜の古名でもあるという話も有りますが、私は良く知りません。また、作楽神社には、忠臣児島高徳さんに因んだ「たかのり煎餅」なんてものがあるそうだけど、美味しいのかどうかも知りません。 Sさんのメッセージは、上のような故事を踏まえての事なのです。 さて、これであなたのことを「范蠡」になぞらえた理由が分かりますね。 Sさんも今、新しい勤務先でリストラや人事に関与しなければならない責任を負わされているそうです。比較的新参者の執行役としては、生え抜きの同僚や、上司・部下たちに囲まれて不条理な目にあい、自らを勾践になぞらえたくもなるのでしょう。 その点、長きにわたって半ば逼塞状況を強いられている私も同じようなものですね。 つまりは、Sさんも私も色々辛い目にあっている。「せめてKさん、范蠡の積りになって、花見の時でも慰めてよ!」というココロなのですね。 さぁこれであなたも立派范蠡候補です。当日はヨロシクお願いしますよ。間違っても范蠡を范文雀と間違えたりしないように。 ところで、Sさんのご先祖は、何でも後醍醐天皇が隠岐の島から戻ってくる時に備えて、坪井という交通の要衝でお迎えすべく、警護役として勤めていらしたのだとか。Sさんの叔父上は、この事を本にまで書いておられるとか。でも本当かどうか・・・ねぇ? しかし、深い薀蓄と広範な人脈を持つSさんのこと、一族の御先祖が後醍醐天皇にご縁があったとしても、驚くものじゃありません。でも、当日は余りこの件でおちゃらかしたりしないよう、お互いにSさんのことを慮って自制しましょうね。そして、少しでもご馳走になれるよう心がけることにしましょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.04.05 20:16:06
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