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マックの文弊録

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2010.04.13
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カテゴリ:よもやま話
☆ 4月13日(火曜日) 旧三月二十九日 癸巳(みずのと み) 赤口:

戒名を考えた。私のではない。知人の一人から依頼されたのだ。

私の父の戒名も父が自分で考えた。彼は誠実一辺倒の教師だったが、どういう訳だか自分の死後には随分の拘りがあった。

墓は作らなくて良い。自分の家の宗派の総本山に納骨してくれればそれで良い。墓など作っても末永くお守りしてくれる者など居ないし、毎年お参りに来てくれる人だっていつかは絶えるだろう。
彼の子供(私と妹の二人だ)には男の子が居ない。女の子しかしない。つまり普通の道理で言えば彼女たちはいずれ他家に嫁ぎ、父の興した家の系統は途絶える(父は三男で長男ではなかった)。それに長男(私のことだ)は、故郷を離れて首都圏に定住しており、郷里の岐阜に戻る日が来るかどうか分からない。戻ったとしても、その次の代を継ぐものが居ないのは同じだ。教師の同僚や部下は、思い出して詣でてくれるかもしれないが、それもそう長いことではない。そうであれば、代々の自分の家の信じた宗派の総本山に納骨して、永代供養してくれるほうが良い。
そう云われればその通りで、私も妹も、未だ存命だった母も反対はしなかった。

彼は、自分が亡くなって遺骨が戻ったら、その一部を長良橋の上から、下を流れる長良川の清流に散骨して欲しいとも云った。
父が東京から青年時代に移り住み、長きにわたって暮らし、教職を奉じ、妻を娶り、その風土を愛した岐阜という町への気持ちとしては大いに肯えるものであったが、公衆衛生法とか何とかの制限で出来ることではなかった。今で言えば遺骨というのは「生ごみ」とでも分類されるのだろうか?

更に父は、戒名も自分で考えていたのである。戒名については、私は父の生前には知らされておらず、彼が息を引き取って葬儀の段取りをする時に初めて、「お父さんは、もう戒名を自分で用意なさって居たんだよ。」と母から聞いた。

戒名を付けるというのは、坊主の専権事項のようなもので、どんな戒名にするかはお布施の額如何に依るらしいことは、当時私も何となく知っていた。院号が冠せられたり、大居士が付いたりすると、結構な額が必要らしい。それは、故人の信心の深さや、人徳や人品云々とは無関係である。そうなると地獄のみならず仏の世界も金次第ということになってしまう。第一戒名の如何によって、あちらの世界での身分にまで違いが生じるのだろうか?これも、あの世から帰還した人が居ない以上分からない。

けれども父が其処まで反骨的な論理を組み立てて、戒名を自作したとは思えない。私の父は、本棚や椅子、植木鉢の棚や何やら、自作するのが大好きだったから、戒名も自分で作ってやろうという軽い気持ちからではなかったろうかという気がする。たぶんそうであったろう。

その戒名、坊主は何となく面白くなさそうな様子だったけれど、最後には「良く出来た戒名でございます。」とそつのないことを言っていた。

さて、先ごろ知人の係累の方が亡くなった。といっても、知人の直接の親ではなく、ほんの幼いころに父親を亡くした知人が、子供の頃に仕事で忙しかった母親と同じくらい、或いは親以上に随分お世話になった人だったという。年初から体を壊して入院して、肺気腫を患っていることが判明し、最後は大して苦しむこともなくあちらへ逝かれた。彼は身内の縁が薄く、老妻と二人暮らしで、知人は彼の入院中、まるで自らの親のように見舞っていらした。容態の急変の連絡を受けてから、逝去まではすぐの事だった。

人間は生まれた時も死んだ時も、色々と手間がかかる。
長年にわたってこの世に、この社会の中で生きた果て死であるから、生まれた時よりも死んだ時のほうが色々雑事は多いようだ。
その大半は、葬儀屋というプロが仕切ってくれるので、遺された者はその指図に従って忙しくさせられている内に悲しみの気持ちを紛らせることが出来るようになっている。

彼の場合は、身内の縁も薄かったし、社会の一線を離れてからの時間も長く、ご本人の生き方も淡々としたものだったようで、葬儀に関わる一切も極々簡略に行なわれた。式次第も所謂無宗教のそれで、極近しい身内だけの密葬であったそうだ。

しかし、遺された老夫人の意向で、位牌を作り仏壇にお祭りする段になって、戒名をどうするかという話になった。色々相談された挙句、知人を経由して私の方に依頼が来たのだ。私の父の戒名にまつわる話をしたことがあるのを、知人は覚えていらしたらしい。

最初は困った。
何しろ戒名だ。私の得意な冗談や酔狂は通じない。珍しくも真面目に考えなければならない。第一戒名なんてしみじみ親しんだことなどない。如何に博覧強記を自負する(?)私だって、その範囲は流石に戒名にまでは及ばない。

夏目漱石先生のお墓に詣でるために訪れた雑司が谷霊園では、ついでに戒名を調べてみようと色々見て歩いた。護国寺の墓所にも行ってみた。しかし、特に参考に出来るような知識を得ることが出来なかった。

余談だが漱石先生の戒名は「文獻院古道漱石居士」とおっしゃる。
権力や権威嫌いで、何となく偏屈で、斜にかかったユーモア人間という印象の漱石先生としては、質素で変哲もない墓石を想像していた。ところが辿り着いてみたら、かなり大きく、背の高い立派な墓石に、鏡子夫人と並んで上記が刻んであったのは少し意外だった。大居士ではないが、戒名には院号まで付いている。
これは勿論ご当人が考えたものではないだろう。ご遺族の方などが、大文豪に相応しいものとしてお付けになったのだろう。あの世からご自分の戒名を知ることが出来たら、漱石先生は何とおっしゃるだろうかと考えると、可笑しかった。

さて、依頼の戒名である。
墓地でのヒントが得られなかった私は、書物やインターネットで「戒名の付け方」などというものを調べてみようとも思った。しかし、これはいよいよとなって止めた。
そういうものを調べれば、山ほどの知識は得られるだろう。宗派によっても様々な規則や慣習の違いがあるだろうし、そういうものを調べだせばきりがなくなる。規則やしきたりが煩瑣であるからこそ、戒名を付けるのは坊主の飯の種になっているのだろう。それにいくら調べても所詮素人の一夜漬けだ。中途半端な前例踏襲は却ってよろしくない。

そう考えて、以前から私でも知っていた「最後は居士にする」と、「故人の名前から字を貰い受ける」という二つの「常識」だけを使うことにした。そうして、後は故人の人柄や生きていらした歴史などを、知人を通じて聴取することにしたのだ。

その結果、故人は、戦後はシベリアに抑留され、帰国後は進駐軍に関わるなどして苦労された(当時は大概の庶民が似たような苦労をされたと思う)。その後結婚され、長男であったにもかかわらず継嗣の地位を弟に譲り、夫婦で慎ましく暮らしていらしたそうだ。子供はなく、知人を我が子のように可愛がったそうだ。知人の記憶では、いつも誠実で優しく接してくれたそうだ。

そこで、私が考え出したのは、故人の名前の二文字を織り込んで、「家を成して清く整え、これを慈しみの心を以って保ってきた」という意味の戒名だ。最後は慣例に従って居士の二文字である。
本当は、ここに戒名の六文字をご披露したいけれど、これは「故人情報」に関わることであり、ご本人の承諾も得られないこともあって、差し控えさせていただく。
しかしこの戒名は、知人はもとよりご遺族の老夫人にも大変気に入っていただけたそうだ。戒名はご本人よりも、故人を偲ぶ遺族のものである。

今日は故人の四十九日で、位牌を祭って法要が(読経は無く、身内だけで)行なわれたそうだ。知人は携帯電話のカメラで新しい位牌を写した写真を送ってくれた。見てみると立派な出来で、真新しい戒名が鮮やかに輝いている。
改めて良かったと思えた。故人はあちらで自分の戒名をどう思っておられるか知る由もないが、生きているほうは何だかほのぼのとした気持ちになることが出来た。

こうなると味をしめて自分の戒名も考えてみようかという気になる。友人に「君の戒名考えてやろうか?」と売り込みもしたくなる。希望者が増えてきたら、お礼をいただくようにしようか?たくさんお礼をいただければ、奮発して殊更に立派な戒名を考えてやろうか・・・
そうなると、とどのつまりは坊主と同じになってしまうな。





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最終更新日  2010.04.15 00:44:59
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