カテゴリ:日ノ本は言霊の幸はう国
☆ 6月2日(水曜日) 旧四月二十日 壬午(みずのと ひつじ) 大安: 横浜開港記念日
Wさん; 冠省 拝復。 > この人は作家になっても大成してたのではと思う程の文才溢れるメールで・・・ ↑↑どうも随分買い被って戴いたようで、こそばゆい思いです。しかし、私は到底作家にはなれませんよ。 思うに作家は、文章力の他に、創造力と構成力が同時に必要だという気がします。私はおこがましくも申し上げれば、多少の文章力とちょっとばかりの創造力はあるかもしれません。しかし、文章の構成力は、我ながらなさそうです。 私の記述の仕方は、自分で見ている限り平叙的です。つまりは物事なら起こった順に従い書く。描写なら近景から遠景に、又は遠景から近景にと、一方向で書く傾向があります。描写もむしろ即物的で、「昼のお星は目に見えぬ。見えないけれども有るんだよ・・・」などという表現は出てこない。「昼間は太陽光が空気中の分子や塵などに散乱される為、空の光度は強く、星の弱い光は目には届いているが知覚されない。」などと書いてしまうでしょう。 これでは、人を魅了し感動させるような文章にはなりませんね。せいぜい、論文とかビジネス文書、それにブログに時々書き散らしている随想、そしてこういったお手紙程度がいいところでしょう。 作家に必要な文章構成力とは、ちょうど天才彫刻家が、例えば木材を相手に彫刻をするようなものだと思います。 彫刻家は、右足の中指の先から彫り始めても、左の耳たぶから彫り始めても、常に頭の中には彫像の全体像があるのですね。だから、見ている側からすれば、「一体何を彫っているんだろう?」とか、「何が出来上がるんだろう?」とか、まるっきり分からない段階でも、決して彫り誤ることも無いし、細かい鑿さばきも的確です。見物人(文章の場合読者)は、いよいよ最後になってやっと全体像や作家の意図が分かる。 そういう力を持っていないと作家などにはなれないようです。 夏目漱石の「夢十夜」の中に「運慶」という小編があります。これは現代(と言っても漱石の「現代」は明治時代ですが)に運慶が現れて、大きな材木を相手に仁王(だったと思いますが)を彫っている。それを見ている見物人が感心しながら、「あれは材木の中に仁王が埋まっているのだ。それを運慶は彫りだしているのだ。」といいます。自分はなるほどそうか、と目から鱗が落ちたような気持ちになって、材木を手に入れて彫ってみる。しかし、幾ら彫っても仁王は現れて来ない。それで現代に運慶が生きている理由が分かった。と、そういう内容です。 従って、私は作家にはなれない。こうして長ったらしいメールを、読み手の迷惑を顧みずに書く程度なのです。 作家の脳は、恐らく言葉をつづっていく際には、演繹的な作業を行っているのでしょう。また、そういうことを、自らが想像し、創造した世界で出来るのを作家というのでしょう。 だから、折角のお褒めのお言葉ですが、私のこの分野での限界を示されたようで、実は余り嬉しくはないのですね。ごめんなさい。 ところで、私は最近文章が下手になったような気がして仕方がありません。よくよく考えてみると、これはパソコンの所為なのかも知れません。 パソコンでは文章は「書く」のではなく、「打つ」というのが正確ですね。私の場合は鍛錬の賜物か、一応ブラインドタッチでキーを叩く事が出来ます。だから文章を綴っていくスピードは結構速い。恐らく手書きで文章を書いていくより十倍近く速いのではないかと思います。 そうなると、頭に浮かんだ文章をそのままキーに打ち込んでいくことになりますね。 この辺が自分が文章が下手になったと感じる理由なのではないかと思うのです。 手書きで文章を綴っていくと、一文字を書くのに平均で2~3秒、一つの句を書くのには恐らく10秒から10数秒かかるのではないでしょうか?そうすると、「文字を書きながら考える」という時間が結構有ります。つまり、「頭に浮かんだ文章を形にする」までに、「書きながら反芻する」あるいは「書きながら表現を変えていく」という時間が有ることになります。言い換えれば、手書きの場合には書くという動作と並行して推敲という動作もしているのですね。 パソコンだと、この推敲という部分がなくなってしまう。従って、打ち終わってから改めて読み直し推敲し、修正するということになります。実際、パソコンを使うようになってから、この「読み直し」というのに結構時間が取られるようになったのを自覚しています。 そうすると、文章の平仄は合うけれど、心の中にある情動や感動が、素直に清新なままに表現されにくくなるようです。だから、自分なりにハッとする表現にはめったに出会わなくなります。 先日ある作家の手書きの原稿を見る機会が有りましたが、しっかりした字で綺麗に書いてあるのにびっくりしました。パソコンだと、幾らでも修正できるけれど、手書きだとそういう訳には行きません。だからこの作家はペンを動かす前に余程考を練り、確信を持ってから言葉を書き綴ったのに違いありません。 また、テレビで老夫人が葉書をしたためている場面を観ましたが、一字一字ゆっくりと時間をかけて書いていらした。こういう習慣もパソコンになれてしまった私からは無くなりました。 この辺りが自分で最近文章が下手になったと思う理由なのかもしれません。 どちらにしても、私にとって作家になることなど望まない方がよさそうです。 草々 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.06.03 14:40:50
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