カテゴリ:小言こうべえ
☆ 6月3日(木曜日) 旧四月二十一日 甲申(きのえ さる) 赤口:
鳩山由紀夫さんがお辞めになることになった。 由紀夫さんの辞意表明の舞台となった、民主党の臨時両院議員総会の実況中継を、私は偶々観る機会があった。由紀夫さんは、相変わらずの平板で、言葉丁寧過ぎる話しぶりであったが、それでも常と異なり、時々話しぶりに力がこもり、少し眼を潤ませるような表情もなさっていた。 政権党の主格として宰相の立場におなりになって、8ヶ月余り。その間内閣支持率は最高時の70数パーセントから下がり続け、直近では20パーセント台前半までになってしまった。 思えば、今この時点でお辞めになるのは、私にはお気の毒な気がして仕方が無い。 両院議員総会での由紀夫さんのスピーチを聞きながら、私は「あぁこの人は、とことん理念を貫いていらしたのだなぁ。」と、そう感じた。 但し、その理念は目的よりも、方法論に重きが置かれていた。 民主党はChangeを一つのスローガンにしてきたが、確かにその意味ではChangeは実践された。 何よりも、内閣の中での議論が、国民にそのまま伝えられるようになった。閣僚の中の考えの相違も、そのままテレビなどで報道された。首相の考えも、その都度伝わってきた。色々な新たな課題にぶつかった際にはそれが、考えが揺れればその様子も。 要するに政治の過程々がそのまま国民に伝わってきたのだ。 こんなことは自民党政治の時代には無かった。自民党時代は、政治のそれぞれの過程は常に、いわば「密室の中」で決定され、首脳や領袖の口は堅く、話しても曖昧で思わせぶりな表現しかなかった。 要するに国民は報道を通して流れてくるわずかな情報から、「どうせまた、裏では色々やっているんだろう」と憶測することを強いられ、そう憶測することに馴れてしまっていた。 憶測は諦めと、我関せずという態度に繋がる。そしてそれは更に、「だから連中に任せておくしかない。何でも良いから、あちらでやってくれれば良いじゃないか。」という、あなた任せに帰結する。 そしてその気持ちの裏返しが「リーダーシップ」への期待である。リーダーシップと片仮名で書けば聞こえは良いが、要するに「ボス猿願望」に過ぎない。 その点、鳩山政権は言葉通りの開かれた政権であったといえよう。 そういう意味で、確かにChangeは実践されたのである。 しかし、それは同時に政策決定過程を国民の前に曝け出すことでもあった。議論を尽くすことは、異論が噴出することでもある。その異論によって、政策の具体面では変更も有り得るし、むしろ変更などは当然無ければならない。 そういう側面が曝け出され、且つそれを受け取る国民の側の「民度」が充分な水準にあれば、国民をも巻き込んだ積極的議論が展開されることにもなったはずだ。 いわば由紀夫さんは自らの悩みや、閣内の議論を曝け出すことで、「国民の共通の問題として、皆さんと一緒に悩み考えましょう」と誘ったのだ。 しかし、相変わらず「ボス猿願望」に囚われている国民(の大多数)からすれば、そんなことをされてもぴんと来ない。却って政府はフラフラして頼りないし、首相の言ったことがコロコロ変わる。あの首相にはリーダーシップが無い。総理としての資質を欠いている。そういった反応にしかならないのである。 挙句に首相は嘘つきだとか、国民を騙したとかいう雑言まで出てくる。こういう無節操な非難をなさる方々は「君子豹変」という言葉をご存じないか、間違ってしか覚えていらっしゃらないのだろう。 「政治にはプリンシプルが無ければならない。」、「日本人にはプリンシプルが無い。」 こう喝破したのは白洲次郎である。 まことにその通り。プリンシプルというのは直訳すれば「原則」になるが、これを「理念」と言い換えても良い。政治には原則とか理念が無ければならないのだ。 由紀夫さんは、その理念を実践なさった。しかし、繰り返すが、それは遺憾ながら「開かれた政府」という、政治過程における方法論においてのみであった。 白洲次郎はむしろ逆であった。彼の「理念」の主たる狙いは、結果であった。目的とするところを実現するのを最優先にし、方法論においては時に、それまでの通念や原則を曲げることすらあった。しこうして、最晩年にあたっては、様々な記録を自らの手で悉く焼き捨て、永遠の沈黙を貫いたのである。 由紀夫さんの場合その理念としての目的は、彼自身がスピーチの中で何度も仰ったように、「五年先、十年先」のものであった。それはそれで素晴らしい事ではある。しかし、現実には、その大目的に至るまでの中小様々の、より喫緊の目的がある筈だ。普天間基地の問題もそういう課題であった。それならば、政策の最高執行者として、確実に実現させる貪欲さと、それに伴うべき手練手管があってしかるべきだったろう。 ご本人の人柄から、それを自ら出来ない、或いはやり辛いのであれば、代役を立ててでもやらせるべきだったろう。そういう局面に、豪腕を以ってなる小沢さんや、場合によっては岡田さんなどを使いこなすことも出来ただろうにと思う。 しかし、由紀夫さんは「開かれた政権」という、方法論上の理念に固執する余り、そういうテクニックを弄することがお出来にならなかった。 この点私は、歯がゆいし残念だと思うのである。 由紀夫さんの首相辞任の表明にあたって、「ここで投げ出すなど無責任だ」という声もある。しかし、それは酷というものだ。総理大臣とはいえ、一人では何事も成就できない。閣僚がいて党の基盤があった上での事である。その党の内部から「選挙に勝てないから辞めて欲しい」という声が高まってくれば、本人の意思とは全く逆であっても辞めざるを得ないではないか。辞任表明に際して小沢さんも道連れにしたというのは、由紀夫さんのせめてもの反攻であったろう。 他の野党はまぁどうでもいいけれど、自民党は、「当然だ。」、「遅きに失した。」、「選挙対策としてクビのすげ替えをやるのは国民を愚弄するものだ。」、「衆議院の解散をすべきだ。」とか、相変わらず変わり映えのないことを仰る。 いつもながら自民党に「国民は、国民は」と引き合いに出されると、国民の一人としては「私は違うぞ!」と言いたくなる。 議員は我々国民の代行者であって、代弁者ではない。そんな役割を頼んだつもりも無いのに、勝手に気安く代弁しないで欲しい。 ニュースなどで聞く「国民の声」は、由紀夫さんの辞任自体には、「残念だ」から「当然だ」までの意見が有った。しかし、一方で自民党に対しては、「民主党になって、自民党の時代とは違って何かやってくれると期待していた。」とか、「自民党時代とは変わると思っていたのに。」とか、名指しされていた。要するに自民党に対しては、遍く批判的な意見しかなかった。 自民党の諸賢は、こういう「国民の声」こそ、真摯に受け止める必要あるだろう。 次に社民党党首の福島女史である。 普天間問題での最終的意見の相違で閣僚を罷免されたので、党としても政権離脱したというのが、彼女と社民党の自らの正当化根拠である。社民党はもとより、何となく世間もそれで納得している。「よく筋を通した。」などという意見も有るようだが、私は、これは間違っていると思う。 社民党は、事前の政策合意に基づいて連立政権に参加したのである。そして党の代表が閣僚として内閣に入ったのである。内閣の閣僚というのは、政権チームの主要スタッフとして、チームそのものを支える責任と義務を負うものだ。それが、政権の政策が違うといって、自ら辞めるのならまだしも、罷免されたのだ。普天間関連の政策が、政策合意から外れているのなら、何故連立を組む際にその点を明確に出来なかったのか。何故それ以後の過程で、政策形成に積極的に閣僚の一員として関われなかったのか? 挙句の果てにクビにされたから、仲間から抜ける。抜けた途端にかつてのチームに掌を返したように反対する。これらは全て福島女史自らの非力・非才を露呈していることに他ならないのではないか?彼女のその後の言動は、俗に言う「曳かれ者の小唄」以上でも以下でもない。 党首として連立に参画し、それをしくじったのだから、彼女こそ社民党党首を辞任すべきだ。そうではないか? 同じ社民党でも、辻本女史は清々しかった。彼女は国交省の副大臣として、恐らくは今まで一生懸命おやりになってきたのだろう。それが、情けない党首のお蔭で、愛着もあり、意欲にも溢れていたポジションを去ることを余儀なくされた。普段の辻本女史は私の好きなタイプではないのだが、彼女の涙は、私には美しいとすら思えた。(ついでに言えば、福島女史も少子化担当大臣をやめる際にはお泣きになったそうだが、全く報道されなかったなぁ。) 由紀夫さんは、今度の衆議院選挙には出馬しないともおっしゃった。首相経験者が隠然たる力を残すのは良くないとの理由だ。 まぁ、この辺は正直言ってお金持ちのお坊ちゃまの甘さだと私は思う。本当に理念を持って政治家になり、党代表になり、首相にまでなって、そして不本意な形で辞めざるを得なくなったのなら、是非再起を決意して、政治家としての使命を全うすべきだ。理念の追求のためには、汚れても、潔くなくても、みっともなくても、貪欲に政治に関わっていくべきだろうと思う。あの方はベビーブーマー世代の亥年生まれだったはずだ。まだまだ若いではないか。 由紀夫さんの、育ちの良さゆえの弱さがこんなところにも出てしまったようだ。この辺は細川さんも同様だったように記憶する。 さて、民主党の代表は、今度は菅さんになりそうな気配だ。 私は民主党が第一党になった時点で、宰相は菅さんが良いのではないかと感じていた。あの方は、弁舌も爽やかだし、一時剃髪して四国のお遍路さんもなさった。だから、この国の政治を何とか良い方に向けてくれそうな気持ちもする。欲求不満の国民たちも、爽やかで歯切れの良い演説で引っ張って行ってくれそうな気もする。 しかし、党首を代える→首相が代わるという構図は、かつての自民党の常套手段であった。それを「国民の信任を経ないで首相を代えるのは何事か」と批判してきた先鋒の一つは民主党であった。 それを思うと、菅さんは眦を決して衆議院を解散し、総選挙に撃って出るようなことを決意なさるかもしれない。 そうなると、諸般の政策にも、景気や雇用対策にもどうしても遅れが出るだろうし、何より選挙には膨大な税金が費やされる。 若し総選挙にでもなれば、万年野党が偶々の僥倖で政権与党の一角に紛れ込み、クビにされて又万年野党に戻るという茶番を演じ、それと共に国民の税金を注ぎ込まざるを得ない事態を引き起こすことになる。福島女史の罪はいよいよ重いじゃないか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.06.03 17:50:33
コメント(0) | コメントを書く
[小言こうべえ] カテゴリの最新記事
|