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マックの文弊録

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2010.06.24
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カテゴリ:そこいらの自然
☆ 6月24日(木曜日) 旧五月十三日 乙巳(きのと み) 大安: 

参議院選挙が告示された。届け出をした候補者の方々は7月11日の投票日に向けて、一斉に街頭演説などの活動をお始めになった。
梅雨時の街頭で候補者の演説などに行き会うとうるさい限りで、偶々携帯電話で話したりしていると相手の声もかき消されてしまい、鬱陶しい。しかし多分今後3年間の国政の大勢を決める選挙になるわけだから、不肖国民の一人としては表立って文句を言うわけには行かない。

それにしても、候補者の方々はどうしてあぁいう場に出ると、一様に人が変わったように絶叫するのだろうか?彼らは(あの蓮舫さんだって)此方からすればテレビで観たことしかない程度の人だし、候補者からすれば、我々なんか全くその他大勢の未知の大衆でしかない。それなのに、どうしていきなり笑いかけてきたり、どうかすると握手まで求めてきたりするなどという、白々しいともいえる行動ができるのだろう。
他方我々有権者大衆の側でも、それに応えて握手に応じたり、笑顔で「頑張ってくださいね」などと嘘を言ったりする。これは殆どが指示を表明するなどというより、ちょっと顔や名の売れたタレントに「触りたい」という程度のノリだろう。

選挙は我々が政治に参加することが出来るほぼ唯一の直接的機会であることは分かっているし、候補者の側からすれば投票用紙に自分の名前を書かせる為には絶叫もしなければならないし、笑顔も握手も大盤振る舞いし無ければならないだろう。それも、投票日までの我慢だ。
私は当選した後も、街頭で行きずりの市民に笑顔で挨拶をしたり握手を求めたりする議員を、今まで見たことはない。

ところで、選挙になると突然無党派層が増えるという現象が世論調査などで見られる。票の側から見れば浮動票だ。このところ、こういう浮動票の行方が選挙の結果に大きな影響を与える。ずっと以前の(自民党と社会党の)二大政党時代にはそんなことも無かったような気がするが、最近のように政党間の主張が(多分共産党を除いて)似たり寄ったりになってくると、「○×党を支持する」という自覚的な支持者はどんどん減ってきているように思う。昨年の秋の衆議院選挙では、この浮動票が雪崩を打って民主党に向かった。その結果の政権交代であった。

特定の支持政党を持たない無党派層有権者は、恐らくは投票日の直前くらいまでは、極端な場合投票ブースで鉛筆を手にするまでは、どの政党のどの候補者の名前を書くか、はっきりとは決めていないのではなかろうか?
選挙になると「一票の重み」という事が選挙管理委員会などによって喧伝され、国民の義務・権利として自らの一票を行使するように督励される。我々国民も「そうだなぁ」と感じている。
ところが投票ブースに入り鉛筆を手にして、目の前に貼られた候補者名や政党名を見たら、サマージャンボ宝くじを買うような気になってしまう。要するに「どうせここで名前を書いてもたかが一票じゃないか。それがどれほどの意味を持っているのだろうか。」という情けない気分になるのだ。お金を払って宝くじを手にして、「この宝くじで2億円が・・・当たるわけは無いよなぁ」というのと同じだ。少なくとも私はいつもそういう気分になる。

今や選挙の趨勢を大きく左右するこういう無党派層が、最終的に投票行動を決める要因を、社会・大衆心理学的に研究した事例はあるのだろうか?
一体何が無党派層有権者大衆個々をして、最後に「○×党」とか「△□太郎」と、投票用紙に書かせることになるのだろうか?それは、政見や社会情勢、そして自らの生活環境などを踏まえた考察から来る、理性的な判断によるのだろうか?それともマスコミなどによって作られた雰囲気に左右されてのことなのだろうか?それとも・・・

投票所に向かう道すがら、最後に見かけたポスターが△□太郎だった。○×党のポスターが破れていた。出逢ったご近所の人が「△□太郎に入れる」と話していて、その人はかねてから嫌いだった。或いは逆に以前から密かに、その人のことを憎からず思っていた。・・・・
私には、投票ブースで鉛筆を走らせ始める力は、ほんのちょっとした、政党や政見とは直接に関係の無い、他愛のないきっかけである場合が非常に多いのではないかという気がする。

色々な分野に「ローカルルール」という言葉がある。自然界にも多くの例がある。
たった一つの受精卵から、手足や胴体、髪や顔の造作、胃腸や肝臓腎臓などの内臓器官、そして脳や神経系までが分化していって、豚や牛、猿、そして人間が出来上がる。
これはDNAという青写真というか、設計図があって、そのDNAが指揮者のような役割を果たすことによって達成される。そういうストーリーが何となく常識のようになって広まっている。
しかし、実際に起きているのはそんな綺麗で壮大なスケールのものではなく、局所局所で、その局所環境の化学的な影響を受けて、特定の部分のDNAのスイッチがONになったりOFFになったりする結果である。つまりは受精卵から例えば人間が「完成」されるのはローカルルールの結果なのである。

全体としてみれば整合性が取れ、何かの意思を持っているように見え、何らかのグランドデザインに沿って起こっているようなことでも、個々の構成要因にまで見ていくと、其処には比較的単純なローカルルールしかない。システム、或いはシステムのように見えるものは、実はローカルルールの集積である。

これは、自然界の色々な分野で観察される事実である。
私は暫く前から、このローカルルールというものに強く惹かれているのだ。





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最終更新日  2010.06.26 15:33:37
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