カテゴリ:小言こうべえ
☆8月4日(水曜日) 旧六月二十四日 丙戌(ひのえ いぬ) 大安:
暑いさなかに、やりきれないニュースが話題になっている。 都内の男性として最高齢と記録されていた男性が、実は30年も以前に亡くなっており、今般ミイラ化して発見されたというのだ。 そうしたら続けて今度は都内最高齢の女性が、住民票のあるべき場所に不在であることが分かり、未だに所在が不明だという。 共に路上生活者、所謂ホームレスなどではない。ちゃんとした家族も何名か居るようだ。 男性の場合は、同じ家屋内に家族も同居していたそうだ。女性の場合も、やはり子供が三人居て、住民票はその人たちの間を記録では転々としていたようだ。 男性は報道などによると、生前からいささか偏屈なところがあったような印象で、「もう誰にも会いたくない。自分は即身成仏になる。」と宣言して30年ほど前に自室に立て篭もったきりだったそうだ。 女性は、子供たちそれぞれが、別の兄弟と一緒に居ると思っていたのだという。これも所在不明になってからは相当長期間が既に経過しているのだそうだ。 それにしても、どちらも奇怪至極としか言いようがない。一体同じ家屋内で親族が亡くなってミイラ化しているというのに、平然と暮らしていられるものなのだろうか?自分たちの母親の所在を、何年もの間、その安否や消息も訊ねないままに放置して置けるものなのだろうか? どちらも年金や遺族年金などを家族が不正受給していた疑いもある、と聞こえてくると、親族であるにも関わらず(或いは親族ゆえか)生者に生臭いいやな業を感じる。 住民票のある自治体もいい加減なものだ。自治体によって違うかもしれないが、ある程度以上の高齢になると、市役所や区役所から敬老の日に長寿のお祝いが届く。私の母も頂戴していた。しかし上記の二人に関わる役所のどちらも、祝い品を郵送するだけで一度も訪問したことがないのだという。だから役所は、てっきり「まだ生存している」と判断し、年金も払い込まれ続けていた。 所詮お役所仕事だといえばそれまでだが、こういう状況を見ると「高齢者福祉」とか「お年寄りを大事にする」という言葉が如何にも白々しい。 厚労省は流石に慌てたのか、高齢者に個別に会って直接面談するよう、急遽各自治体に指示したそうだ。そうしたら同じようなケースが静岡や福島など方々で出てきたそうだ。これからも更に同様の例は増えていくのだろう。それは間違いない。 現在百歳程度の人たちは、先の戦争の頃には40歳位だった人たちだ。壮年期である。 私のような若輩者は、話で聞いたり本で読んだりする程度だが、あの時代は戦時中も戦後も大変な時代だった。当時壮年であった彼らや彼女たちは、或いは国のために戦いに狩り出され、或いは銃後の家族を支え、敗戦後は貧困や食糧難に立ち向かいと、交々に辛酸を舐められたであろう。 それが再び経済発展の波に乗ることができ、幸い長寿を重ねられたというのに、60年後には誰からも、家族からすら「知らない」、「そんな人が居たの?」と云われ、挙句の果てのミイラ化であり所在不明である。 これじゃぁ、余りにもやりきれないじゃないか。 これは平成の棄民だな。 こういうことが当たり前のように方々で起こるようになると、もう人類は滅びるな。経済再発展、消費税アップ、ましてや地球温暖化などを心配する必要などない。その前に人間社会は存続させる価値もないものになるばかりだ。 人類が他の哺乳類や霊長類を圧して、今まで発展してきた原動力の一つに、彼らと違って人類だけが高齢者を大切にし、社会構造の中で共存してきたという事が言われる。 数多の動物の中で、おじいさんやおばあさんと生活を共にするようになったのは人類だけなのだ。 おじいさんは地域社会や家族集団の知恵者として、おばあさんは育児を助けることで、社会の重要な構成員として存在していた。特におばあさんが育児を補助するようになって、女性の受胎可能期間は飛躍的に延びた。その結果数十万年前には、生息数としてはマイナーな存在でしかなかった人類は、今や地球全体に勢力を張ることが出来た。 この事は以前にこのブログに「おばあさん仮説」として書いた。 つまりは、今我々があるのは、おばあさんのおかげと言っても言い過ぎではないくらいだ。 それが、特に20世紀後半になって核家族化が進み、おばあさんは(おじいさんも)田舎に置いてけぼりで、同居しなくなった。世界的に出生率が低下したのは、そのせいである。と、言ってもいいと思う。 厚労省は「イクメン・プロジェクト」を進めるのだそうだ。これは「育児をする男性(Men)」からの造語だそうだが、くだらない。本来哺乳動物のオスには育児本能は備わっていない。それに育児を分担させるというのは、動物としての人間の本来に干渉するものだ。こういう社会的なストレスを受けることで、恐らくは男性の生殖能力は阻害されるであろう。イクメン・プロジェクトが女性の社会参画の平等性を狙うものならともかくも、種族保存、出生率の低下防止という観点からは、よい結果はもたらし得ない。と、私は思う。 核家族化の挙句の果てに、自分の親にも関心を払わない。生きているか死んでいるかも「知らない」(それどころか死んでいても無視するのだ)というのでは、数十万年来人類の優位性を与えてきた要素を自ら放棄するのと変わらない。 だから、もう程なく人類は滅びるのである。 親だけではない、子供を育てる意欲がなくなった、自分の時間が欲しかった、とそういう理由で幼い子供を置き去りにして、必然的に死なせてしまうのも同類である。 これはR.ドーキンス流に云えば、DNAの陰謀によるのかもしれない。この頃の人類の過度な増長と、周辺の環境や生物に対して弊害を垂れ流しにして恥じないやりようは、DNAにしても想定外のことだったのかもしれない。.そこで、DNAは種としての緩慢なる滅亡を選択した。云うならば種としての人類のアポトーシスである。 地球上の全ての生命のルーツは、源まで辿れば共通の祖先としての原始生命に行き着く。DNAはその原初の記憶をどこかに留めている筈だ。それが全地球レベルでの警報を受けて、のさばりすぎている人類に対してアポトーシスプログラムを発動させた。 そうじゃないと言い切れるだろうか? 我々人類としては、せめて遅ればせながらおばあさんを大切にして、反省と恭順の意を顕わすべきではないか? ついでに言えば、男性としてはおじいさんも大切にして欲しい。おじいさんは人類という種の繁栄には、必ずしも積極的な貢献をしてこなかったかもしれないが、それでも智恵や経験の伝達者としての一定の役割は果たしてきたはずだ。 だから、今更ながらではあるが、DNAによく理解してもらうために、おじいさん、おばあさんを大切にすべきなのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.08.04 18:47:43
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