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マックの文弊録

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2010.08.08
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☆ 8月8日(日曜日) 旧六月二十八日 己丑(かのえ とら) 先負:

前回と前々回で頭の体操のつもりで、「宇宙人に会ったらどうするか」などという話を書いたら、存外詰まらない結論になってしまってがっかりした。

宇宙人でも、UFOでも、心霊現象でも、超常現象でも何でも、凄い!と驚いたり感動したりするのは、刹那だけを切り取って、あれこれ深く詮索しないからである。改めて色々調べていけば、例外なく当たり前の詰まらない結論になってしまう。「幽霊を見たりといえば枯れ尾花」(だったっけ?)である。
テレビ番組で時々超自然現象や心霊現象を取り上げて放送しているが、どれもこれも最後は必ず肩透かしで竜頭蛇尾になってしまうのも同じ理由だ。だから予め録音しておいた、聴衆の驚く声を随所で流したり、見せ場をわざとモザイクにしたりして、雰囲気を無理に盛り上げたり、視聴者を焦らしたりするのだ。
私はあぁ言う番組は、最初から失望が予定されているので観ないことにしている。

もう一つは、私の宇宙人のブログでもそうだったが、推論を進めていくのは同時に幾つもの仮定を積み重ねていくということに他ならない。これは自然科学分野に限らずおよそあらゆる学問の持っている宿命である。
学問だけではない。政治家同士の論戦でも、商売上の議論でも、はては巷の井戸端会議でも、詰まるところは同じである。

ただ巷間の議論と学問のそれとの間の違いはある。
学問の場合仮定を立てたら、その仮定の妥当性を一つ一つ検証しなければならない。仮定が崩れたり変更があれば、その後の議論は全て変わってしまうからである。

それともう一つ、境界条件というのがある。これは「この話はこういう範囲の中でのものであり、その範囲外には及ばない。」という条件を区切ることである。こういう取り決めをしておかないと、何をどういう立場で議論しているのかが分からなくなってしまい、とんでもない乱暴な議論になってしまったりするからである。

数学以外の自然科学の場合には、もう一つ原則がある。「どんな理論でも現実の自然界において実証されなければ意味はない。」というのがそうだ。この辺は社会科学の世界では、強い要請ではないように思える。数学は実証を必要としないが、数学を思考する人間がそもそも自然の一部だから、論理科学としての数学は、最初から自ずと実証性を備えているといえるだろう。

ところがこの辺りは巷間の議論では、はなはだいい加減である。
仮定に過ぎない話を、あたかも所与の必然のように平気に言うし、それが反論の出来ない確定した事実のように、他の権威を借りて言い立てる。
或いは相互に関係のない仮定を無理やり継ぎ合わせて、または逆に当然採用すべき仮定を適当に切り捨てて、自分の都合のよい論旨を捏造する。
境界条件などというものは、はなっから気にしない。だから本来非常に局所的な議論であるはずのものを、当然普遍的なものであるように拡げていく。
この辺は、幾らでもその例を挙げることができる。

こうして仮定も境界条件もでたらめで、論理連鎖さえ恣意的に展開される議論は、逆に言えば常識破りで一見面白く、時に一種の影響力すら持つ。こういう議論を展開する側には、例外なく何らかの意図があり、時にそれは芬々たる臭気を放つ。臭いをさせながら周囲に伝播していくから、こういうのを屁理屈というのだ。

学問の世界では仮定や仮説はあっても、結論は文字通り結果としてしかない。それに対して、巷間に見られる屁理屈には最初から結論が用意されている。そしてこういう屁理屈にこそ我々は日常曝されているのだ。

最近の国会論戦なんかは、私にはその典型に思えたものだ。





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最終更新日  2010.08.09 13:34:18
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