カテゴリ:薀蓄
☆ 8月27日(金曜日) 旧七月十八日 戊申(つちのと とり) 赤口:
【人間は考える竹輪である】 「人間は考える葦である」、この言葉は17世紀のフランスの哲学者であったパスカルによるものとして有名だ。「人間は物理的には弱く卑小な存在に過ぎない。しかし考える力を持っていることによって、何よりも高貴な存在たりえる。だから考えることで、我々は自らを高めよう。」という主旨の言葉である。 こういう言葉は何世紀も経った後でも、我々の心に響いてくる。 人間はまことに考える葦である。しかし、生き物としての人間を考えてみると、「人間は考える竹輪である」といえるのだ。 我々は、最初は一個の受精卵(細胞)から始まる。旅立ちの場所は母なる人の胎内である。細胞は受精後数日かけて、細胞分裂しながら子宮内に落ち着き、そこでさらに分裂を続け、やがて中空の細胞の塊(胚盤胞)になる。この段階では、つまりはゴムマリのようなものだ。 暫くすると、ゴムマリの一部がくびれて内側に向けて陥没し始める。陥没の先端が反対側に達したところで、先端部が融合して、その部分に穴が開く。ここでゴムマリは一本の管になるのだ。 この後は、この管の形を基本的に維持したままで、各部分が発達・分化していく。手や足や何やかやが出来ても、それは管の外側の表面が出っ張ったりへこんだりすることであって、一本の管であることには変わりがない。 同じように管の内側でも発達・分化が進み、それらが胃や腸を作っていく。しかし相変わらず基本的には一本の管であることに変わりはない。 数学に「位相幾何学」という分野がある。英語ではトポロジーといい、「柔らかい幾何学」とも云われている。トポロジーでは、ある形を連続的に変化させていくことで出来上がる色々な図形を数学的には同一であると考える。 粘土のお団子を一本の穴で貫くとドーナツのような形が出来るが、このドーナツを引き伸ばせば管になる。この管の様々な場所を、引っ張ったりつまんだり、或いは膨らませたりすると、複雑な形を作ることが出来る。追加の穴をあけたり、くっつけたりしてはいけないのが、ここでのルールである。 こうすればドーナツ(管)は取手の付いたコーヒーカップに変形させることも出来る。しかし、上のルールに従う限り、メガネや(ただし、レンズの無いメガネだが)クラッカー(穴が幾つも開いている)は作れないし、日本の茶碗(取っ手が無い)も作れない。穴を開けたり、或いは塞いだりしないと作れないメガネや茶碗は、ドーナツ(管)とはトポロジー的には別物なのである。 頭の中で周りのものの形をトポロジー的に色々変化させてみて、別の何ものがトポロジー的に同じかを考えてみるのは、ちょっとした頭の体操にもなって面白い。しかし、ここではこの話はこれくらいにしておこう。 さて、人間は口から肛門に穴が貫通している管なのだというと、いやいや、人間の体にはそれ以外にも色々沢山の穴が開いているじゃないか。そう思われるかもしれない。しかし、これらの穴は全て袋小路なのである。耳の穴も尿道孔も、胆管や膵菅など、消化器につながる穴も、肺につながる気道もすべて行き止まりの袋小路で、管をトポロジー的に変化させないで作ることが出来る。 これは人間だけのことではない、すべての動物は同じく一本の管なのだ。 それでも「一本の管」というのでは、何となく無味乾燥な感じがするから、「一本の竹輪」ということにしよう。竹輪は柔らかいし、生きてはいないけれど管よりは生き物のアナロジーとしては相応しい(それに何より美味しい)。 ここで、パスカル以来の人間の定義を改めることにしよう。 「人間は考える竹輪である」。中々いいじゃないか。 これは、私が勝手に云っていることではない。分子生物学者の福岡伸一さんも云っていることなのだ。 (この稿続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.08.28 22:23:29
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