カテゴリ:薀蓄
☆ 8月28日(土曜日) 旧七月十九日 庚戌(かのえ いぬ) 先勝:
【人間は考える竹輪である-(2)】 《寄り道:ヒトはいつから人間なのか》 ここで、最近ちょっと印象に残った話に寄り道してみる。 前の稿で書いたように、我々は一個の細胞からスタートする。それが分裂していって、やがて竹輪になる。その竹輪の部分々ゝが更に分化・発達していって、ヒトの形が出来上がる。 それでは我々はいつから「人間」になるのだろうか? 私は何時のころからかははっきり分からないが、疑うこともしないで自分を人間だと思っている。周りも私のことを人間だと思っている(はずだ)し、私も周りの連中のことを人間だと思っている。そういうことだ。 しかし自分を人間だと思えば、それで人間なのだろうか? 最近は、ものを言ったり、選挙に出たり、あげくに波乗りまでする犬がテレビに出ている。観ていると周りも、その犬を普通に人間扱いしている。してみるとあの犬は「人間」なのだろうか?(そうならば、一度じっくり話してみたい。中々味のありそうな犬である。) ヒトが人間であるためには、何かの基準がないと心もとない。第一私の人間としての歴史は何処まで遡れるのだろう?母親の卵子が父親の精子によって受精した時にまで遡れるのだろうか? 実は日本の法律上では胎児は人間ではないとされている。 刑法上は、出産の際、母体の外に出た瞬間に人間になる。その瞬間以降は、これを傷つければ傷害罪に、殺してしまえば殺人罪に問われる。 しかし、「母体の外」に「何が」出た瞬間に人間になるのかは、法律には明確に規定されていない。頭の天辺が見えた瞬間なのか(逆子の場合には足だな)、体の半分以上(この表現も未だ曖昧だが)が出ればいいのか、それとも、全身が出きった瞬間をいうのか?帝王切開の場合にはどうなのか? 聞いた話だが、昔東大の先生が、この辺のプロセスを黒板に板書して(絵まで描いて!)、実に詳細に講義をした。この先生の講義は、学生、特に男子学生に大好評を博したそうだ。 つまり刑法上「いつ」人間になるかははっきりしない。(その先生が、「赤ん坊の頭がアソコから見えた時が・・・」と仰ったかどうか、正確にはよく覚えていない。) 刑法には堕胎罪というのがあって、人工中絶などによって胎児を殺傷することは罪とされているが、しかしそれは傷害罪や殺人罪などではなく、つまり被害対象は人間であるとは看做されていない。つまりやはり胎児の段階では人間ではない。 母体保護法という法律がある。この法律が1948年(昭和23年)に最初に制定された時には、優生保護法という名前であった。優生保護法も母体保護法も(優生保護法では障害児排除の色彩が強かったが)、基本線は母なる人の母体保護の観点から、堕胎罪の適用除外を定めようとするものであって、「胎児はいつから人間なのか」という問いに直接答えるものなどではない。 母体保護法では、「胎児が母体外において、生命を保続することのできない時期における、医師の認定による人工妊娠中絶に対しては堕胎罪を適用しない。」と定められている。 そうなると「母体外でも生命を保持できるまでに育った胎児」は、その時点以降は人間(というより、正確には未だ法律的人間ではなく「人間に準じるもの」といわねばならないのだろうが)と看做せるのだろうか? 再び、ここでもその時期がいつなのかは、明確に示されていない。 実際1953年(昭和28年)の厚生事務次官通知では、その「時期」の基準は「通常妊娠8ヶ月未満」(ということは「満32週未満」となるか)とされていたが、1976年(昭和51年)の厚生事務次官通知では「通常満24週未満」に変更され、さらに1990年(平成2年)の厚生事務次官通知において「通常満22週未満」に改正されて現在に至っている。つまり「準人間」になる時期も変動しているのだ。 しかも、「個々の事例における時期の判定は、都道府県の医師会が指定した医師により判断される」。つまり、人工妊娠中絶実施限界とされる妊娠22週は、医師の判断によっても、その時期が変動し得るのだ。 更には、死体解剖保存法という法律では、四ヶ月未満の死胎は人間の死体としては扱われない。だから、死胎が出るという話になると、製薬会社や化粧品会社の車が、密かに病院に乗り付けられたのだそうだ。 一方で民法上では、相続、遺贈、損害賠償の請求に際しては、胎児であっても親子関係がはっきりしてさえいれば、人間としての権利を持っている。つまり、妊娠中の胎児であっても遺産相続人としての資格は持っているし、母親が事故にあったりした場合の損害賠償請求は、胎児の分も行うことができるのである。つまり民法では場合によって胎児も人間扱いされる。 まとめると、日本の法律においては、 先ず胎児は人間ではない。民法上は上記の三つのケースにおいてのみ人間である。 と、そういうことになるのだ。 (以上のかなりの部分は、『村上陽一郎著:「人間にとって科学とは何か」 新潮選書』を参考にしました。) ・・・さて、これじゃぁどうもすっきりしないなぁ。 ところで、日本には「お七夜」という風習がある。 これは赤ん坊が誕生してから七日目(生まれた日も一日と数える)の夜に、赤飯や尾頭付きの鯛、昆布、紅白の麩などの祝膳を用意して家族で食べ、この日からお宮参りまでの約1ヶ月間、命名書を飾る。この風習は平安時代にまで遡ることができるそうで、「名づけ祝い」、「命名式」などともいわれる。 お七夜といえば、なんの疑問も無くおめでたい行事だと思うけれど、その背景には少し怖いものがある。 昔の日本では、赤ん坊が誕生しても、すぐにこれを公表したりしなかった。生まれてから七日間は内緒にしていた。この期間を通じて新しく誕生した子を、我が家の子供として認証し、育てていくかを考えていたのだそうだ。つまり言い換えれば、この期間内であれば、その家の当主の判断でその子を殺すことも捨てることも出来たのだ。 七日目の晩になると、その子は晴れて人間と看做され、その家の子供として認証され、そして近所や縁者にお披露目され、家族から祝福を受けることになるというのだ。つまり、昔の日本は誕生しても七日間は人間ではなかったのだ。 お七夜の本来はそういうことだったのだそうだ。 今の日本の戸籍法では、誕生後14日目(生まれた日も入れて)までに、役所に出生届けを出すことに定められている。しかし、それまでの期間に赤ちゃんを殺傷すれば、当然罪に問われることになるのは勿論である。 「いつから人間になったのか」は、色々調べてもどうも曖昧ではっきりしないが、最近では「いつまで人間なのか」も問題になっているのはご存知の通りだ。 「人間である」ということの大前提は「生きている」ということであるが、この「生きている」ということも、人間に限って生物学的な意味と、哲学的というか倫理上の意味が絡み合っており、その両者は明確には分かちがたい。こうなると、「人間であることが分からないまま考え続けるのが人間である」となってしまうのだろうか? (この稿未だ続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.08.29 02:04:17
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