カテゴリ:何か変だね
☆ 9月3日(金曜日) 旧七月二十五日 丙辰(ひのえ たつ) 先勝:
私はクイズ番組を良く観る。観ているだけでなく自分も回答者になったつもりでテレビの前から参加する。出てくる問題の答えを考え、誰よりも速く答えるというのは面白い。問題には時々「引っ掛け」という罠が仕掛けてあることが多いが、その罠を見抜き、しかも画面の向こうの回答者より速く答えられれば無上の快感である。 しかし、同時に「こんな事を知っていて何になるのだ。」とも始終思う。クイズ番組では色々なことを知っている者が勝つ。知っていることが知恵であり、頭脳が優秀であるとされている。 そうかい?沢山ものを知っていれば優秀かい?そんなことはないはずだ。 知恵とは知識じゃないだろう。本に書いてあることは本を読めばいい。大事なことは知識を結びつけ、考える力というものだろう。細かい知識を頭に沢山詰め込むより、必要な時に必要な知識が、何処を調べれば、誰に聞けば得られるのかを知っていることの方が大事じゃないか。 元々暗記が嫌いで大の苦手な私としては、テレビのクイズ番組で問題が出されるたびに、問題に対する批評までしてしまう。その批評は、私が答えを知らない問題が出ると殊更辛らつになる。テレビ相手にブツブツ言うのは、老化の兆候だそうだが、・・・やはり。何れにしろ私は素直な視聴者ではないのだ。それと気持ちの半分以上は、正答者への嫉妬だと、自分でも思う。 先日テレビで「全国高校クイズ大会」(だったと思う)という番組を観た。全国から勝ち抜きで上がってきた50の高校から、3人ずつのチームが出場する。そしてトーナメント方式で競い合い、最終的に全国最優秀校の座を争うというものだ。 このクイズに参加した高校の数がどれほどあるのかは知らされなかったが、相当な数にのぼるに違いない。多分千校ほどにもなるのではなかろうか?だから会場に登場した50の高校は、既にそこに居るだけで(クイズの分野での)エリート校である。 見ていると、殆どがいつか名前を聞いたことがある有名進学校ばかりである。 なるほど、クイズに強いということは少なくとも受験に強い、そういう等式は成り立つようだ。 最初は全チームが一堂に会して、30問に挑戦する。その正答数の多いほうから順に8つの高校が勝ち残り、準々決勝に進むことになる。この30問が全て、既に相当の難問ばかりだ。ま、難問というか、私に言わせれば「何でそんな下らない事を知っている必要があるのだ!?」といわせるものが多かった。つまり私は、圧倒的に僻み半分の辛らつな「問題批評者」であり続けたのだ。 それに、問題が出されるごとに「東大生の正答率4%の問題です」とかいった前置きが入る。東大生はこういう時には、必ず日本の知恵のエリートとして引用される。変な話だ。私は、孫には当たり前のことなのに、東大生は全く知らないという事を、幾つも知っている。 会場のゲストにも東大OBのタレントなどが来ていた。中には最近「脳科学」で有名になった茂木さんも居た。茂木さん、大丈夫かね? 引き立て役は、明らかに東大とは無縁の芸能タレントだ。こういう時にはやはりお笑い系のタレントだろうな。キラキラアイドル系や、しっとり美女系のタレントじゃ、やっぱりまずいんだろう。 上位8校に残ったのは、当然の如く、押しも押されぬ有名進学校ばかりだった。 そして更に熾烈なクイズ競争が続き、最後は東京の開成高校が優勝した。準優勝は埼玉の浦和高校だ。浦和高校は私の住んでいる埼玉県にある。それに公立高校でもあることだし、勝って欲しい気持ちは強かったが、残念だった。 因みに私の出身校も50校の中には名を連ねていたが、最初の30問レースで敗退してしまった。41位だった。あの高校は何となくおっとりしているし、県民性としてもギラギラした闘争心とは縁遠いからなぁ。まぁ、クイズレースに負けたからと言ってもどうということはないよ。それよりもっと大事なこと(一体何だろう?)に励めばいいさ。 さて、番組では相当数の問題が出題されたが、重箱の隅的な問題として記憶に残ったのは、先ず「パラグアイの国旗の裏に描かれている動物は?」だった。知るか、そんなの。 そして、丈の高い卓にもたれて立っている、良く知られた坂本龍馬の写真が示されて、「この坂本龍馬の写真が撮影された写真館の名前は?」だからぁ、それが何なのだって! ちょっとうなるところもあった。 「日本の歴代首相の名前を50音順に並べると、最初は・・・」ここで、回答ボタンが押された。押したのは浦和高校か、或いは京都の洛南高校だったか?答えは「若槻礼次郎」で正解。 司会者の質問に答えて、正答した学生の曰く、「始めは二番目に来るのは誰かという問題かと思いました。しかしそれなら『最初は』ではなく、『一番目は』という質問になるはず。『最初は』ときたので、それじゃあ『最後は誰か』という問題だと推理しました。」 つまり、素直な回答者なら、「最初は」と聞いて「芦田均」と答えただろう。それを、「最初は」と聞いた後これだけの事を考えて「最後に来るのは若槻礼次郎」と答えたというのだ。ムムム恐るべき推理力!でもこの推理力、正答だったから良かったようなものの、かなり危ういところがあるな。第一素直じゃない。 普通の回答者なら、・・・・恐らく問題を最後まで聞いても分からないかもしれない。でも、人生には大した影響はない。 又、「アメリカの生物学者ロバート・ホイタッカーの提唱した生物五界のそれぞれは何か?」という問題もあった。高校の生物では、こんな事を教えるのだろうか? 私?私は一応、動物界、植物界、原生生物界、菌界までは分かった。しかし、最後がどうしても出てこない。そしたら答えは「モネラ界」だった。 モネラ界・・・、聞いたことありますか? 調べてみたら、他の四界の生物はすべて真核生物で構成されるのに対して、モネラ界は原核生物だけから成る界なのだそうだ。・・・なるほど。 しかし、この五界説は今では学会でも使用されることは余りないのだそうだ。・・・ザマミロ。 開成高校は正解したが、浦和高校はサルモネラ界と答えてしまってバツ。この辺、やっぱり公立高校は何となくほのぼのしていて可愛い。 こういう「知識問題」に混じってこういうのもあった。 「1万角形の対角線は何本か?」1万角形は勿論正多角形だ。 そして、ハッブルの法則が示され、「この式から宇宙の年齢を計算せよ」という問題もあった。(出題者は小柴先生だった。) 更に(私にはこれが一番面白かったが)、「直径10kmの隕石が太平洋に落下した場合、それによって起きる津波の高さはどれほどか、計算して求めよ。」 さて、こうなると、知識だけの問題ではない。 正多角形の対角線の数は、私は高校などで教わった記憶が無い。だから先ずそれを求めて、それを1万角形に敷衍して計算する必要がある。これは知識問題ではない。論理的能力と計算術の問題だ。 しかし、宇宙の年齢を求めるには、ハッブル定数の値や、光の速度、その他関連する基礎知識が必要になる。その上で計算をする必要がある。しかし、実際にはハッブル定数も歴史が進むにつれて「進化している」し、細かいことを言えば計算をする上では様々な仮定を立てる必要がある。 一方隕石の問題はもっと複雑になるはずだ。隕石の想定密度、第一宇宙速度などを知っている必要があるし、太平洋の水深がどれくらいの場所に落ちるかによっても答えは変わるであろう。こういう問題を解く場合には、宇宙の年齢より様々な仮定を立てなければ成らない。 こういう時、一般には「理想問題化」を行う。つまりは単純化するわけだ。 隕石は斜めからではなく、地球の中心に向けて真っすぐに落ちてくるとする。隕石の密度は地球と同じ程度で均一な組成である。形は完全な球形である。太平洋もお盆のような形である・・・などなど。 推論をする際に問題を理想化するのは、別に不思議でもなんでもない。専門家だって同じようにやっている。理想化した問題を考えて、それで得られた結論は、大局においては正しいはずだ。 しかし、一方では「理想化された問題」というのは、決して現実にはあり得ない問題だということも事実である。だから問題を理想化する際に持ち込まれた様々な仮定は、後でそれぞれが妥当なものであることを、一つ一つ検証しなければならない。 こういう仮定は、解釈や学問の進捗度によって変わるものだ。つまり答えは、「現在知られている科学的事実からすれば」とか、「・・・という前提で考えれば」という条件が必ず付いて回ることになる。 しかし、高校生たちは黙々と計算を続け、「正解」を導き出した。勿論正解を導けなかったグループもいた。出題者側も「正解」を一つ示しただけで、それ以外は不正解として疑問を持っている様子も無かった。 高校生たちが、10分だか15分だかの制限時間内に、パソコンも電卓も無く、自分の知識と筆算用の紙だけで、答えを導き出したのは凄いと思った。 しかし、それと同時に「あぁ、これが受験エリートなんだろうな」とも思った。 つまり、色々複雑なことは切り捨てて、「公認された仮定」のみを採用して、馬力で「正解」を導き出す。 他に諸葛孔明による、子孫に向けた処世訓を白文で示して、「これを読んで要点をまとめよ」という問題があった。高校生たちが、返り点も何も無い漢文を読み下していくのは凄いと感心したが、この問題の「正解」は「常に冷静でいろ」ということだった。他に何かを追加して書いたチームは不正解とされた。 諸葛孔明の原文は十行ほどの長さはあったと思う。それが「常に冷静でいろ」だけか?それなら諸葛孔明だって、「常在静」とか何とか、それだけ書けば済んだはずだ。十行ほども書いたのは、結論は「冷静」だけかもしれないが、それを取り巻く、ひょっとしたらもっと大事なことを残りの部分で書いたのだと考える方が正しいのではないか? しかし「正解」は絶対である。 こうして見ると、受験における「正解」は、出題者が正解と考える答えだということになる(数学の問題だけはこの点は違う)。それを答えないと点数にならない。 そうだ、そうだったのだ。受験問題に立ち向かう際には、「出題者の意図を見抜け」と耳が痛くなるほど言われたものだ。私はそれにどうにも釈然としない気持ちを持っていたが、それを整理して整然と反論する力も勇気も無かった。何より反論しても試験で点を取れなければ、単に負け犬の遠吠えで、意味は無かった。 ・・・あーあ、もう何十年も前の事を思い出してしまった。 それにしても、今回の高校生たちは凄かった。 考えるに際しても、知識の蓄積が基礎として必要なんだということを、改めて教えられた思いだった。私もこれからは暗記するのを余り馬鹿にしないようにしよう。 しかし、それと同時に宇宙の年齢が139億年というのが「正解」、諸葛孔明の処世訓は「冷静を説いている」のが「正解」、そして津波の高さが319mというのが「正解」というのには最後まで、そして今でも強い抵抗感が残っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.09.06 15:56:46
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