カテゴリ:そこいらの自然
☆12月7日(火曜日) 旧十一月二日 辛卯(かのとう) 赤口: 大雪
【物集彦 其の七】 今日は二十四節気の大雪だ。 そういったら物集彦はすぐに突っ込みを入れてくれた。 「先ず大雪は『おおゆき』じゃなくて『たいせつ』と読む。『だいせつ』でもない。 それから、二十四節気というのは誤りで。正しくは二十四気というべきだ。」 あぁそうですか。それが?・・・ 「日本は暦を他の大抵のものと同様、中国から輸入した事は君も知ってるだろ?暦も中国から太陰暦を輸入した。太陰暦は月齢に従った暦だ。新月の日は月始めで15日の夜は十五夜で満月になる。新月を朔、満月を望といい、従って太陰暦の暦月は朔望月というわけだ。 月が地球を周回する周期は29日半程度だから、29.5掛ける12は354日になる。これでは、地球の公転周期である365日と四分の一には、十数日足りなくなる。これをそのままにしておくと、暦と太陽の運行が段々ずれて云って、春爛漫のはずの4月に雪が降ったりすることになる。」 暦は太古の昔以来、人間と自然とのやりとりから生まれてきたものだろう? じゃぁなぜ、最初から地球の公転、つまり太陽の運行に合わせた太陽暦ではなかったのだろう? 「月は惑星の衛星としては、例外的に大きいのだ。地球をピンポン玉の大きさだとすると、月はパチンコ玉の大きさになる。それがこの縮尺だと、地球から約1メートルちょっと離れたところを周っているのだ。 母星の四分の一もの大きさの衛星がこんなに近くを周ってるのは、太陽系では他にはない。元々月は地球から何かのきっかけで分裂して出来たとも云われて、宇宙のスケールでは地球と月は双子だ云っても良い位だ。 そうすると彼我の間で色々な影響が出てくる。地球と月の間には潮汐力という力が働き、その結果月はいつも同じ面を地球に向けて公転するようになった。 地球の方では、一番分かり易いのは海の潮の満ち干だ。満潮や干潮は月の影響によって起きている。 生命は35億年前に海で生まれた。その海は月による潮汐力の影響を大きく受けている。だから地球上の生き物は、その発祥の時から月の影響を大きく受けてきて当然なのだ。 海ガメは満月の夜に海岸の満潮線の上にまで卵を産みに来る。珊瑚の放卵も初夏の満月の晩にの出来事だ。女性の月経周期は、今でも月の公転周期とほぼ同じだし、狼男の変身も満月の晩だな。 子供が誕生するのは潮が満ちてくる時だし、人が亡くなるのは引き潮の時間だと云われる。 つまりは、生き物の体の暦は、月齢に同期している部分が大きいのだな。 それに生活面でも、昔の夜は今のように人工的な明かりなど無かったから、旅に出たり夜に何かしようとする際には、月明かりが非常に重要だった。昔の旅人は月齢を大いに気にしたものなんだよ。 つまりは月齢を基にした暦の方が遥かに実用的だったのだ。」 「ところが、人類史上農耕が始まって状況が変わった。 植物は太陽の光を使って光合成をする。だから穀物や作物は太陽の暦に従って生育する。農作業にはつまり、太陽暦が必要になってくる。それをきっかけに、宗教的にも太陽神が主に、月の神はサブ的な存在になったのだ。」 「生物としての生理に即した暦と、農耕用の暦を両用するためには、太陰暦と太陽暦を折衷する必要が出てくる。 そこで、一年を太陽の天球上のある位置を基準にして24等分した。基準点を春分点とし、この春分点は黄経0度と定められた。太陽が春分点を通過する日は、昼と夜の長さが等しい。ただし黄経は、ある程度天体の動きが分かってから定められたものだ。それで黄経0度は暦の始めにはなってない。 伝統的に太陽暦を採用していた多くの国、まぁヨーロッパだが、太陽高度が一番低くなる、つまりは昼の時間が一番短くなる冬至を、一年の起点としていた。人類の発祥の地は西アフリカだが、文明が発展したのは北半球だったからね。 緯度の高いヨーロッパでは、冬に近付くとどんどん昼の時間が短く、暗くなっていく。辺りが暗くなれば、気分も滅入ってくる。 しかし冬至を境に、再び太陽は少しずつ長い時間地上を照らすようになる。冬至は明るい暖かい季節に向けての再生の兆しだったから、これを一年と始めに据えるのは自然だったのだ。 クリスマスだって、元来は冬至のお祭りだった。本来キリストの生誕は2月だか4月頃だったそうだ。それを誰かがヨーロッパに持ち込むにあたって、現地で伝統的だった冬至祭りに合体させてしまったんだな。キリスト教の布教にはその方が都合良かった訳だ。 中国や日本でもやはり太陽の回帰は嬉しいもので、一陽来復といって、黄色い切り口を太陽に見立てて南瓜を食べたり、やはり黄色くて丸いゆずを湯船に浮かべたりして祝う。しかし東洋では1年の始まりは冬至ではなく立春だった。 天球上太陽の辿る道筋を黄道と呼ぶ。太陽はこの黄道上を一年で360度周回する。都合のいいことに地球の公転周期はほぼ365日だから、太陽は黄道上を一日にほぼ1度進むことになる。 黄道を24分割した一単位は、角度で15度になるから、ほぼ2週間ごとに次の単位との境界を迎える。これが二十四気だ。これは太陰暦ではなく純粋な太陽暦だ。つまり農耕の暦として使える。」 「しかし、そうなると太陰暦と太陽暦である二十四気は、二重構造になり、二つの暦の間の関係は無いままだ。だから春爛漫の筈の4月なのに、雪が降ることもそのままだ。 そこで、24の区分を交互に「節気」と「中気」に分けた。ここで銘記すべきは、太陰暦での暦月は二十四気での「中気」の存在によって決定されることだ。節気の方はこれ程の「権威」を持たない。 さて、少し正確に言うと1朔望月は29.5306日で1太陽年は365.2422日だ。 ここで、1朔望月と1太陽年の日数(365.2422日)の最小公倍数を求める。 一寸ごちゃごちゃした計算になるが、厳密な最小公倍数など求める必要は無い。適当なところで切り上げればよい。」 というと、物集彦は電卓で何やらひとしきり計算し始めた。彼の電卓はHPの科学・統計計算用の電卓で桁数も多い。それに関数キーが一杯ついているので、私は触ったことも無い。 やがて、彼は「フム。正しい。」と一つ頷くと、再び話を続けた。 「235朔望月=6939.6910日。そして19太陽年=6939.6018日だから、この辺が適当だな。その差は約0.09日だから2時間ちょっとに過ぎない。 19太陽年は228ヶ月だから同期間の朔望月数235には7ヶ月足りない。 つまり、19年間に7ヶ月の余分な月を埋め込めば、太陰暦月でも太陽暦での季節感と、ずれないで済むということだ。 こうして埋め込む暦月は、本来の暦月ではなく『正規の月に準(閏)じた月』という意味で閏月というのだ。 さてそうすると、具体的にはどうやって閏月を埋め込む時期を決定するかだ。 ここで、二十四気が登場する。 少し前に『太陰暦での暦月は、二十四気での中気によって決定される。』といっただろう? たとえば春分は太陰二月の中気だ。正確に云い直すと、『春分の有る月を二月とする』ということになるね。 それが太陽暦と太陰暦の周期の違いが積み重なっていくと、やがて次の三月の中気である『穀雨』までに太陰の一朔望月がまるまる入ってしまうことが起こる。 つまりこの朔望月には中気が無いから暦月名が付けられない! それで、そういう時には「閏二月」を挿入することで解決するのだ。簡単に言えば閏月は「中気の無い月」だね。そういう年は従って一年は13ヶ月ある年になる。 先ほど云ったように、1朔望月は29.5306日で1太陽年は365.2422日だ。二十四気での中気から中気までは、365.2422割る12で約30.44日。1朔望月とは約0.91日の誤差が出来る。これが累積して1朔望月の長さになるには約32.45朔望月かかる。だから閏月は大体32~33太陰月ごとに挿入されることになるのだ。 このように、日本で使われていた太陽太陰暦では19年で7ヶ月不足する月数を、二十四気の中気を利用することで補うようにしていたのだ。」 「だから、二十四気は12の中気と12の節気から成っていて、その中でも中気は大事な意味を持っていたのだ。それを二十四節気と呼ぶのは乱暴だろう? 実際太陰太陽暦元祖の中国の古い文書でも、二十四節気ではなく二十四気と明記されているし、日本でも江戸時代までの文献には全て二十四気で出てくる。 それが二十四節気になってしまったのは明治時代以降の話なのだ。君も古典を尊重し論理性を重んじるのであれば、今後は二十四気と呼ぶようにしなければいかん。」 物集彦にかかると、たかが大雪の話でも、これだけ長大なものになってしまう。 それにしても、大雪といっても、未だ雪が盛んに降る時期ではない。一番寒いのは大寒ではなく、むしろ立春の頃だ。これも地球温暖化のせいなのだろうか? 「あぁ、それはね、二十四気の由来が中国にあるからだよ。 中国の気候と日本の気候とではいささかのずれがある。それに、天球上での太陽の動きが地上の実際の気候に影響を及ぼすには、約一ヵ月半の遅延があるのだ。 だから日本では二十四気のほかに雑節を設けて、ローカルな農耕指標としたのだよ。 そもそも、地面の比熱と・・・・」 今度は、熱力学の話になってしまいそうなので、私は約束があるからと、鄭重にお断りして退散することにした。物集彦の話は確かに奥が深いし、一つのことを多角的に見せてくれるという点ではありがたい。 しかし、それも「たまに」である限りにおいてのことである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.12.09 17:49:19
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