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☆12月9日(木曜日) 旧十一月四日 癸巳(みずのとみ) 友引: 漱石忌
【物集彦 其の八】 今日、12月9日は漱石忌だ。 漱石は、名主で金持ちの家に生まれたが、夏目家は子沢山で漱石の誕生も余り歓迎されないものであった。 生まれた日は慶応三年(1867年)二月九日だ。この日は土曜日で干支は「かのえさる」だった。漢字で書くと庚申だ。 陰陽五行説では「庚」も「申」も「かね=金」に属するとされる。金が絡むと人身は荒むのは、今も昔も同じだ。そのため庚申の日は、「争いや刀傷沙汰が起きやすい」とか、「この日に生まれた子供は長じて大泥棒になる」とか謂われて忌日だった。 おまけに、人間の体の中には天帝の使いである潜入捜査官が住んでいるとされる。それが庚申の日の夜に、宿主が寝静まったのを見計らって体を抜け出して天に昇り、天帝に宿主の悪事を告げ口に行く。これは「三尸(さんし)の虫」といって、いわばチクリ屋だ。普段は宿主の厄介になっていながら、定期的に恩人のことをチクリに行くんだから、根性のヤナ奴だ。 しかし、三尸の虫に悪事や疚しいことがチクられ、それが天帝の知るところとなると、その人間は早死にしたり、色々な不幸を蒙るとされた。だから、庚申の夜は神々を祀る宴を催し、それも徹夜で飲み明かして眠らず、三尸の虫が天に行けないようにした。 これを「庚申待(こうしんまち)」とか「宵庚申(よいこうしん)」というが、未だ日本のどこかにその風習は残っているだろうか? 厄介ものの三尸の虫を懐柔するためのシンボルは、「庚申さま」として、路傍に石の像として遺されていたりする。この辺は道教由来の話である。 漱石は庚申の夜に生まれたから、庚申の厄を背負ってしまう。そこで厄除けに金の字を配して金之助と命名された。 そのお蔭か、漱石は大泥棒にはならないで済み、文豪、英文学者、評論家として日本の文学史にその名を残すことと成った。 しかし、長じて漱石と号したのがいけなかったのか。 よく知られているように、「漱石」は中国の「晋書(しんじょ)」孫楚伝に「漱石枕流」として出てくる熟語だ。 皮肉屋で負けず嫌いの孫楚君は、俗世間を超越し自然に旅する境地を表すのに、「漱流枕石=流れに口を漱ぎ、石を枕にす」と言うべきところを、「漱石枕流」、つまり「石に口をすすぎ、流れを枕にす」と言ってしまった。孫楚君、その時少しも騒がず、周りの指摘にも何のかんのと屁理屈をこねまわして、頑として正さなかったという。 因みに、孫楚君のその屁理屈が余りに馬鹿馬鹿しくて、周りはむしろ感心してしまった。だから「さすがぁ~!」と感心する言葉に「流石」という漢字を充てるようになったのだそうだ。 つまり漱石とは、決して素直で実直な名前ではない。 それがまた三尸の虫の告げ口するところとなったのか、恐らくは天網恢恢疎にして漏らさずの神様のこと、そのせいで漱石は胃を病み、神経衰弱、胃潰瘍、痔疾、それに糖尿病まで患い、終には胃潰瘍の悪化で大正5年(1916年)12月9日のこの日、満49歳の若さで身罷ってしまった。 漱石はいよいよ最後になった時、病床でいきなり寝間着の胸をはだけて、「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから!」と叫んだそうだから、最後は素直にもっと生きたかったのだと思う。 春風未到意先到。これはまた、今の私の心境でもある。 合掌。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.12.10 16:34:07
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