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マックの文弊録

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2011.03.03
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カテゴリ:よもやま話
【2011年辛卯 3月3日 丁巳(ひのと み) 大安: 耳の日】

今日はひな祭り。年間では希少な女の子のお祭りだ。
しかしひな祭りは元来男女の別なく行われるお祭りだった。

《ひな祭りは女の子のお祭りじゃなかった》
昔の日本には他の多くのしきたりと同様に、中国から伝来した五節句という行事があった。平安時代以来のことだ。
五節句は年の初めから順に、人日(じんじつ)、上巳(じょうし)、端午、七夕、重陽(ちょうよう)と並ぶ。いずれも、季節の節目にあたってそれまでの穢れを落とし厄を祓い、浄められた心身で次の季節に臨もうという、大切な儀式を営む日であった。
この上巳の節句が現在のひな祭りのルーツなのだ。

上巳というのは「三月上旬の巳(み)の日」という意味だ。もちろん昔の話だから三月は旧暦のそれである。今年の暦では4月8日(金曜日)が旧暦三月六日(癸巳)で「上巳の日」にあたる。ところが、周知のように旧暦の日付の干支は毎年変化してしまう。それでは煩わしいということで、上巳の節句は三月初めの巳の日ではなく、三月三日に固定されるようになった。
これは日本に渡来する以前、元祖中国での話で、魏(ぎ)の時代のことだそうだ。つまり4世紀という昔々(今から約1700年も昔)の話だ。平安時代に日本に輸入された時には既に三月三日に固定されており、古来の「上巳の節句」という名前だけは変わらず引き継がれたわけだ。

他の五節句も同様だが、上巳の節句は、季節の節目の祓えと禊(みそぎ)の儀式の日であり、平安時代の人々はこの日の朝になると野山に出かけて薬草を摘んだ。そして水辺に行き、その薬草で体の穢れを祓って健康と厄除けを願ったのだ。

旧暦の三月三日は新暦では4月になる。新暦の4月は桜のみならず、桃の花の盛りのころだ。桃は原産地の中国では仙木や仙花とよばれ、邪気を祓い不老長寿をもたらしてくれる植物として、今でも親しまれている。日本でも祝い事の席では桃の実をかたどった和菓子を食べる習慣がある。それで、桃は儀式の象徴として相応しい植物だという訳で、上巳の節句は「桃の節句」とも称ばれるようになった。

つまり上巳の節句だけでなく五節句は祓いや禊の儀式の日であり、いずれにも男女の一方だけを祝うとかいう意味は無かったのだ。

《どうしてひな祭りは祝日ではないのか》
江戸時代まで、五節句は祝日として祝われていた。上巳の節句も祝日だったのだ。しかし、明治6年になって新暦が公用暦として採用された際に、祝日としての五節句は廃止され、これらは国民の祝日としてではなく、宮中の祝日としての色彩を強めていった。

更に時代が下って、日本が太平洋戦争に負けた後祝日の見直しも行われ、五節句も祝日復活の検討の対象になった。この時3月3日の上巳の節句や5月5日の端午の節句、それに新年度の開始日である4月1日を祝日にすることが検討された。そして最終的には5月5日の端午の節句が「こどもの日」として祝日に採用された訳だ。つまり上巳の節句は、祝日候補としては4月1日と共に落選となったわけだ。
これには尤もな理由があって、北海道や東北地方など、寒冷で気候の悪い地域のことを考えると、3月3日が祝日になっても、未だ周りは雪だらけだし、とにかく寒い。その点5月の端午の節句なら、全国的に温暖で気候が良いから、より祝日として全国に公平で相応しい。
つまり5月5日が祝日なのに3月3日が祝日でないのは、当時のお役人の深ぁ~い配慮によるもので、決して男女差別ではないのだ。

《どうして桃の節句にはひな人形を飾るのか》
上にも述べてきたように、上巳の節句(桃の節句)は、元来祓えと禊の日であった。人々はこの日野面で摘んだヨモギなどの薬草を持って水辺に集い、穢れや厄を拭いこれを水に流すのが当時のしきたりであった。

また一方で、古代日本の民間には、贖物(あがもの)と呼ばれる人形(ひとがた=にんぎょうとは読まない)を用意して、それを自分の身体にこすり付けて厄や穢を移し、川などの水辺に流すことで祓を行うという習慣があった。これは阿末加津(あまかつ)とか這子(ほうこ)と呼ばれていた。
それが桃の節句の薬草を用いた厄祓いの儀式と結びつき、紙製の小さな人の形(形代)を作ってそれに穢れを移し、川や海に流して災厄を祓うという祭礼になった。

更にはこの行事が、平安の宮中で女官や女の子が紙の着せかえ人形で遊んでいた「ひいな遊び」(ひいなとは「ひな」、つまり小さい鳥やものという意味)と融合し、自分の災厄を代わりに引き受けさせた紙人形を川に流す「流し雛」へと発展していった。
つまりは、お雛様は自分の厄や穢れを引き受けて水に流されてくれる身代わりだったのだ。

この習慣が、時代が下ると共に、宮中貴族だけでなく裕福な豪商や武家の社会に、そして最終的には庶民にまで普及していく。それにつれて雛人形も、その飾りつけも段々華美になり豪華になっていった。そうなるとこれを水に流してしまうのは惜しくなる。お金もかかっているから勿体ない。それで、「水に流す」という部分は都合よく忘れ去られることになり、ひな人形は節句の飾りが済むと、翌年のために大切にしまわれるようになったのだ。

上巳の節句がひな祭りにリメークされたのは、江戸時代の始め、天正年間の頃のことである。この時代には雛人形は一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いと共に、飾り物として武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。そのため、雛人形は自然と華美になり、水に流される代わりにより贅沢なものへと流されていく。

江戸時代もたけなわになると、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られ、今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。それまでは雛人形は二人だけの「内裏雛」のことだったのだ。
この後、江戸末期から明治にかけて、嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていった。

《ひな人形の並べ方》
ここで、本来「内裏雛」とは雛人形の「男雛」と「女雛」の一対を指していたのだと言っておきたい。それが昭和11年(1936年)にサトウハチロー作詞、河村光陽作曲で発表された童謡「うれしいひなまつり」の2番の始めに「♪お内裏様とお雛様~♪」と唄われるようになってから、「内裏様」は男の方、「お雛様」は女の方の呼称になってしまった。

関西風(古式)の並べ方さて、「内裏雛」の並べ方である。
これが関東と関西では違うというのは、余り知られていない。
元来日本では、「左」(向かっては右)が上の位であった。人形では左大臣(雛人形では髭のある年配の方)が随身の中では一番の上位で、天皇(男雛)から見ての左側にいる。ちなみに飾り物の「左近の桜、右近の橘」も天皇から見ての左右であり、これは宮中の紫宸殿の敷地に実際に植えてある樹木の並びでもある。

ところで、明治天皇の時代までは左が高位というそのような伝統があったため、天皇は左に立った。しかし明治の文明開化で日本も洋化し、その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に倣い右に立った。それ以来「左右の逆転」は皇室の伝統になり、近代になってからは、昭和天皇は何時も右に立ち香淳皇后が左に並んだ。これは今上天皇の場合も同様である。

関東風の並べ方それを真似て東京では、男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多くなった。しかし永い歴史のある京都を含む畿内や西日本では、旧くからの伝統を重んじ、現代でも男雛を向かって右に置く家庭が多いのだ。

社団法人日本人形協会(そういうものが存在するのだ)では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」とするが、公式にはどちらでも構わないとしている。
だからあなたの家が古式を重んじ、平安の昔古風に倣うのであれば内裏様の男雛を向かって右に置くのがよろしい。

さて、ひな祭りが終わった後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという説は、昭和の始めに作られた迷信である。これは、旧暦の場合、梅雨が間近であるため、早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから、というのが理由だとされている。 また、「季節の節目できちんと片付けないなど、けじめを持たずにだらしなくしていると嫁の貰い手も現れないぞ!」という、躾の意味からもいわれているようだ。

元々ひな人形は、身代わりとして穢れや厄を引き受けてくれるものだったことを思い出せば、やはりひな祭りが終わったら早々に翌年までの「お休みどころ」にお引取り願うのが無難なところだろうと思う。

こうして見てくると、雛祭り一つにおいても背景には日本の、日本人の長い歴史が脈々と引き継がれているものだということを改めて感じるものだ。





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最終更新日  2011.03.04 12:50:43
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