カテゴリ:何か変だね
【2011年辛卯 3月4日 戊午(つちのえ うま) 赤口:】
暫く前から話題になっている「入学試験問題の流出事件」である。 インターネット上のQ&Aサイトである「Yahoo知恵袋」が携帯電話経由で利用されたということで、携帯電話の功罪、インターネットの功罪が色々言われている。 概していえば、「試験の会場に携帯電話を持ち込ませてはいけない」、「Yahoo知恵袋のようなサイトでは、これが違法に悪用されることの無いよう対策を講じるべきだ」という意見が大方のようだ。 しかし私はどうにもそうは思えない。 元々携帯電話もインターネットの様々なサイトも、時間や場所などの物理的なハンディキャップを超克して、情報という価値のある筈のものを迅速に遍く伝えるためのものとして生まれ発展してきたものだ。つまり「いつでも、どこでも、何でも」である。 そういうものだから、NZの地震災害の現場でも、急場のリアルタイムの情報メディアとして役に立ち、中近東や中国での所謂「民主化運動」の喚起にも使われた。 例えば中近東でインターネットが多くの人によって使われたことには、批判などは聞こえてこない。これを目の敵にしているのは、所謂「独裁政権」として「民主化」抵抗している側である。つまりは、立場によってその評価は左右されるのだ。 あの国々では現政権に反対することは立派に違法であり、「違法行為に使用されるから、それについては規制をはめるべきである」という議論は、もはや一般的には成立しないことになる。 今回の入試問題の場合は、果たしてそれを行った人間に「違法」という意識があったかどうか。私のような年代とは違い、彼の時代には物心つく頃から携帯電話もインターネットも既に存在していたのだ。そういう環境の中で育ってくると、「違法」などと殊更に意識しないままに使ってしまったということもあり得るのではなかろうか? それならむしろ、携帯電話の持ち込みや、Yahoo知恵袋の自己規制という「上流」での議論をする前に、入学試験という「下流」の仕組みを考え直したほうが良いのではないかと私は思うのである。 入学試験というのは選抜試験だといわれている。選抜試験とは「数多の中からある人たちを選びぬく為の試験」というのが本来の意味だ。 応募者が多い場合には、これは「ある水準以下の人を落とす」ということと不可分になる。「落とす」と「選ぶ」は相互に裏腹の関係であるが、そのどちらを基本精神に据えるかによって、やり方は大いに異なってくる。 今の大学の入学試験は「落とす」方に精神が偏重しているのでは無いかと私には思えるのだ。 少し本来の筋論を述べてみる。 大学というところは勿論義務教育ではない。学問に興味を持ち、その分野での研鑽を志すものに教育と研究への道筋を授ける学府である。それに耐えうるもの、或いは意欲のあるもの、更には志のあるものを選び出し、機会を与えるようにするのが選抜試験の本来の目的であるはずだ。 それに対して、個人の資質、能力、関心や興味の範囲・程度、また目標とするところは、それぞれによって異なるはずである。そういうところは、大勢の人間が集合させられ、一律に作られた問題を課せられる事ではちゃんと分かるはずがない。 試験の落第生が、将来学問的に大成功をするのは、よく美談として取り上げられるけれど(なぜか日本のノーベル賞の受賞者は殆ど例外なく自分が劣等生であったことを誇りにすらしているじゃないか)、これは美談などではなくむしろ普通にあることだと思う。 それを今のような試験で選抜するのは土台無理な話だ。むしろ本来有望な学生を、どんどん「落とす」結果にもなりかねない。(実際そうなっているんじゃないだろうか?) それに共通問題に対する集団試験であればこそ、今回のような問題が生じたのだともいえる。 勿論入学に際して、最低限備えているべき学業水準というものはあるだろう。それに、上に書いたような本来の目標を達成しようとすれば、どうしても個人ごとの試験とか個人面談をせざるを得なくなって、これを受験生全員に実施するのは物理的にも不可能だということになろう。 だから、最初の試験は「足きり試験」と割り切って、広範な分野から多量の択問を出すようにすれば良い。制限時間内にはちょっと解けそうも無い数の問題を出してやるのだ。受験生は解答用紙にどんどんチェックをしていくようにする。こうすると、試験は時間との勝負になるから、携帯電話を操作したりするような暇は無くなってしまう。 それに正答率も、受験生が理解をしていれば正答の方に大幅に偏るはずだ。でたらめに解答していれば、二択の場合には正答の分布は50%に、三択の場合には33%に近づくはずである。大量の問題を出して選択肢も多めにすれば、統計的にも正しい能力推計ができるはずであるし、何より解答のチェックも機械的にできる。 こうして「水準以上」の学生を選び出した後で、今度は思考能力や興味・意欲などを見る個別試験(乃至はそれに限りなく近いもの)に入っていけば良い。ここでは「落とす」のではなく、本来の「選抜」の精神を貫くのだ。 どうだろうか? ただしこれを筋論であるといわざるを得ないのは、今の日本の大学が「学問」を目指しているのか、或いは「技能の習得」をその目的としているのか、私にはどうも分からないからである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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