カテゴリ:路傍の観察
【2011年辛卯 4月1日 金曜日 旧 二月二十八日 乙酉(ひのえ いぬ) 大安:】
最近各地の駅頭で募金活動を良く見かける。お休みの日などは、学生と思しき若い人たちが何人も並んで声を枯らして寄付を呼びかけている。 それを見ていると、先日の大震災は甚大な被害をもたらしたが、その一方では日本人としての連帯感を、あぁした若者たちにも呼び起こしたのだ。「日本人もまだまだ捨てたものじゃないな」と頼もしい気持ちにもなる。 今回の東北関東大震災の被害総額は15兆円~25兆円ほどにものぼると言われている。しかし、未だ被災地域では人命も含めて被害の全貌が分かっていないし、何より上の見積もりには福島第一原発の事故による損害は算入されていない。最終的に被害総額が幾らになるかは未だ分からないが、それでも日本の国家予算の三分の一か、或いはそれ以上に及ぶか。何れにしろ国の屋台骨を大きく揺るがす甚大な額になることは間違いなさそうだ。 それに対して、一般の募金で集まった額は昨日までの時点で、約700億円超だという。16年前の阪神淡路大震災の時と比べて非常に早く、且つ沢山の募金が集まりつつあるそうだ。それでも被害総額の数百分の一でしかないとはいえ、これらが市井の民草からの浄財の集積であることを思えば、やはり「日本人は中々のものだ」と心強い。 ところで、こうして集まって、被災地に送られるお金を義援金という。メディアでも、街頭の看板やポスターでも皆一様に義援金と書かれている。 ちょっと待てよ。これは「義捐金」じゃなかったか?確か私が学校で教わったのは義援金ではなく「義捐金」だったと思うし、私自身もこれまで「義捐金」と書いてきた。 気になって調べてみたら、 「義捐」=不運なものを哀れんで金品を施すこと(言林) 「義捐」=慈善・公益・災害救助などのために金品を寄付すること。「義援」とも書く。(広辞苑) とどちらも「捐」の字が書いてある。広辞苑には「義援」とも書くとの注釈がある。 そうなると私としては、漢字まで遡って調べることになる。 「捐」という字は、「捨てる」、「削り取る」、「抉り取る」という意味の形声文字である。熟語を見ると「捐金」として「金を捨てる」。「捐館」は「高貴な人が死ぬこと」。とある。 一方の「援」は会意形声文字で、旁の「爰」は「ここに引く」という意味がある。昔の小説には「爰」と書いて「ここ」と読ませる例もある。これに手偏を付けて、「引いて助ける」という意味になるのだ。 つまり、「義捐」と書くと「義のために金品を捨(捐)てる」、「自らの所有する金品を削り取って人のために施す」、という意味になる。其処には自らも痛みを受けるという雰囲気がある。 それに対して、「義援」は「金品を施して此処(普通の生活)に引き戻す」という雰囲気にでもなろうか。 単なるニュアンスの違いでしかないといえばそれまでだが、私としてはやはり古来の「義捐」のほうが相応しいと思うのだが、いかがだろうか? 「義捐」は民草の一灯の集積として尊いものだ。 それに対して「義援」の方は、富裕層や行政の力で、これも(これこそ)是非力を入れて欲しい。 この際金持ちや役人は、「捐不急之官(史記・呉起伝)=ぐちゃぐちゃ余計なことを言ったり今までの役人仕事などを排して」、「挙賢援能(礼記・儒行)=賢者を挙げて能力を発揮せしめ」大いに「義援」に精励して欲しいのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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