カテゴリ:そこいらの自然
【2011年辛卯 4月19日 火曜日 旧 三月十七日 甲辰(きのえ たつ) 先勝: 岐阜古川の起し太鼓】
今日は暫くぶりの雨だ。 都内の小公園を通りかかったら、桜の花の柄のついた萼の小豆色が、一面に地べたに落ちて雨に濡れていた。そう言えば靖国の桜も皆、いつの間にか葉桜に変わりかかっている。 今年の桜はいつの間にか満開を迎え、またいつの間にか散ってしまったような印象だ。 私だけの印象かと思っていたら、多くの人が異口同音に同じことを言っている。 前に書いたように、私は桜下の宴会の喧騒は好きではない。梶井基次郎が言った、「桜の下には屍体が埋まっている」という句に連想する、孤桜に咲く花の雰囲気が好きだ。 好きだけれど、今年の桜のように余りにひっそりと開花して、いつの間にか散ってしまうのはいかにも寂しい。 勝手だといわれればその通りだが、遠くに聞く桜下の宴会の喧騒も、また日本の春の風景なのだと、今更ながら思ってしまう。 大地震・津波、原発事故に続く国中の逼塞状態は、日本の春の風景まで変えてしまったのだ。 松本城を背景にする満開の桜の写真が手に入った。 別名「烏城(カラス城)と呼ばれる、黒を基調とした天守を背景に咲く桜の花は如何にも美しく華やぐ。松本辺りの桜は今頃が見ごろなのか? 松本には旧制松本高等学校の敷地跡に、旧校舎を利用した「旧制高校記念館」があってかつての青年たちの懐旧の場所となっている。 この旧制松本高等学校の寮歌に「春寂寥」というのがある。旋律も歌詞も、今の感覚では、如何にも軟弱で、いっそ女々しくも寂しいものだが、それが一応インテリぶった青年たちの琴線には心地よく響いた。 これは、四季の歌で四番まであるが、その一番が春の歌である。 ♪春寂寥の 洛陽に 昔を偲ぶ 唐人(からびと)の 傷める心 今日は我 小さき胸に 懐きつつ 木(こ)の花蔭に さすらえば あわれ悲し 逝く春の 一片(ひとひら)毎に 落(ち)る涙♪ 旧制松本高等学校生徒のみならず、私たちの時代でもこの歌は愛唱歌だった。この歌には以下のような「前口上」というのがある。 「富貴名門の子女に恋するを、純情の恋と誰が言う。 ・・・酒は飲むべし百薬の長。 女は抱くべしこれ人生無上の快楽。 妖色美人の膝枕に快楽の一夜明くれば 夢もなし 又、金もなし いざ歌わん 春寂寥の歌・・・」 前口上の中身は中々過激なところもあるが、この後ゆったりしたメロディーで七五調の歌詞が四番まである。短調の旋律は実に長々しく、花の下で歌っても、次第に歌の雰囲気に呑まれて、唄い終わったら酔いはさめ、決して酔った上での乱暴狼藉には至らなかった(と、思う)。 松本の桜も、今年は寂寥の春の中で咲いたのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.04.19 17:49:51
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