カテゴリ:よもやま話
【2011年(辛卯) 8月21日(日曜日) 旧7月22日 戊申 仏滅】
以前この稿でも何度か紹介したり引用したりしたが、私には「ブログ友達」の釈迦楽先生という方がいらっしゃる。いやいや友達などとはおこがましい。むしろ「畏友」と申し上げるのが相応しいだろう。 釈迦楽先生は東京のご出身で、現在は中京地区の国立大学で現代米国文学(?だと思うけれど)の教授をなさっている。「釈迦楽」というのは無論ブログネームの筈だが、彼のブログは洒脱な文章でグルメから車、そして日本武道と広汎に及び、時にご専門の領域や昨今の大学制度に関して鋭い批評もなさる。 この釈迦楽先生のブログに、7月17日以来変調が起きた。 釈迦楽先生が慕う「S先生」という方が7月10日にお亡くなりになった。 そのS先生を追慕する文章の掲載が7月17日から始まったのだ。 「釈迦楽ブログ」は、気が向いたときにしかアップしない私のブログなどとは大違いで、確実に毎日アップされる。それがこの日から8月19日の最終回に至るまで、延々32回にわたって入魂のS先生追悼の詞に費やされたのだ。 私はいわゆる理科系人間で、釈迦楽先生やS先生のご専門の文学には全くの門外漢である。文学の分野での研究者が具体的に何をどうなさっているのかも詳しくは知らない。しかし、釈迦楽先生の追悼文を通じて、分野が異なっても真摯な研究者の姿勢というものは共通するものであること、そして真摯な研究者というものは自ずと良き人を知己として或いは後進として得るものであることを改めて感じさせられた。 釈迦楽先生は追悼文を締め括るに当たって、S先生のことを評して「巨木のような人」と云っておられる。 釈迦楽先生は、S先生のことを「確かに、S先生は私の傍らにすっくと立った巨木のような人でありました。度重なる嵐に大枝はもぎ取られ、山火事に腸を焼かれ、芯のところには黒こげの大きな空洞が出来ていたけれど、そうした幾多の艱難にも折れることなく立ち続けた巨木。たとえそれが「倒れる力」さえ失っていたからだとしても、最期の最期まで天の一点を凝視して不動の体勢をとり続けた巨木。先生は強く、大きい人でした。」と描写していらっしゃる。 私が最近読んだ本(笹本稜平の「未踏峰」)にも、奇しくも「ブナの古木のような人」が出てきた。学問の世界に限らず、商売や政治、更には日常の世俗の世界であっても、こういう人と身近に接することができるのは、つくづく幸せだと思う。 巨木のような人、古木のような人、古武士のようなひと、・・・表現は色々あるだろうが、私にもこういう人が居てくれればと思うが、それは私が気づかないだけで、実は既に何人か私を支えてくれている、そういう方が居らっしゃるのだろうとも思う。 釈迦楽先生のブログのお蔭で、S先生という方は私の記憶にも残る人になった。 それと同時に、S先生の生き方や、釈迦楽先生とS先生の交流のあり方を通して、私自身これからに向けて触発されるところが大いにあった。 私独りの感動と印象にしておくのは如何にも勿体無いので、興味をお抱きになった方には是非にと、ここで紹介させていただくことにする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.08.21 19:36:04
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