カテゴリ:よもやま話
【11月3日(木曜日) 旧十月八日 壬戌 大安 月齢7.3 = 上弦の月】
昨日2日は「一の酉」だった。 「酉の日」の「酉」は「とり」で十二支の一つだ。と、いうことは酉の日は12日毎に巡ってくる訳だ。 11月は小の月で30日間だから、酉の日が11月中に3度ある為には(12*3=36)で、1日から6日までの間に最初の酉の日が有れば、その年は三の酉まであることになる。 これを平均すると、三の酉は凡そ隔年毎に有る事になり、三の酉はまぁそんなに珍しいことではないのだ。 それでは、「三の酉がある年は火事が多い」と言い習わされているのは何故だろう。 神道では、日本武尊が東国遠征の際に戦勝祈願を鷲宮(とりの宮)神社で行い、祝勝のお礼参りを花畑(今の足立区)の大鷲神社の地で行ったとして、これにちなんで、日本武尊の命日とされる11月の酉の日に祭礼を行い、市が立ったということになっている。 鷲宮神社も大鷲神社も、又各地にある大鳥神社も祭神は日本武尊である。 でも、これでは「三の酉と火事」の関係は分からない。 又別に云う。 時は平安時代 新羅三郎義光(簡単に源義光ともいう)が奥州討伐に出征する際に、今の東京都足立区花畑町にある正覚寺に祀られてあった大鷲明神の本尊をお守りとして借り受けた。その後目出度く戦勝して凱旋できたので、大鷲神社を建立してご本尊を祀った。それで、これが武門の守りとして武士の崇敬を集めるようになり、酉の日に大祭が催されるようになった。 まだ、これでも「三の酉と火事」の説明になっていない。 酉の市の起源が日本武尊さんであれ、源義光さんであれ、東京浅草の鷲神社の傍には、かつて有名な「男のパラダイス」、吉原の遊郭があった。(私の時代には、既にとっくに無くなっていた。) 吉原の遊郭は、元々開幕間もない江戸幕府の公認の下に、現在の日本橋人形町に設けられた(1617年)のが始まりである。その40年後、明暦の大火(1657年)によって遊郭も焼けてしまったが、既にその頃には、日本橋の辺りはもう市街地化してしまっていて、元の位置に再建できない。そりゃそうだ、市街地の真ん中に遊郭など有っては、環境上まずいだろう。第一男の方も行き辛い。 そこで当時未だ「浅草田んぼ」と呼ばれる水田地帯であったところに移転・再建されたのだ。 新吉原のすぐ近くには、足立区花畑、千住と並んで江戸時代以来酉の市の主流の一つ、浅草鷲神社がある。 そこで酉の市の当日は、遊郭側は参詣帰りの男どもを引き込むために、吉原の大門を大きく開け放って入り易くして、「おいで、おいで」をしたのである。鷲神社でも、吉原の縁起にちなんだオカメの熊手が酉の市で売られるようになった。要するにマッチポンプである。 こうなると、鼻の下を伸ばした男どもの留守宅を預かる奥方達は心穏やかではない。スケベな亭主が、脳天気に遊郭に迷い込んで女遊びに浪費する事など許せない。何とかして家に引き戻さなければならない。 それでも、「亭主の稼ぎだ」との気持ちから、一の酉と何とか二の酉までは、「しょうがない」と諦めていたのだろう。しかし、幾らなんでも月に三度は許せない。毎月の家の掛かり(支払い)もある。生活費にだって困る。 それで、三の酉のある年は「火事が多い」とか、「のんびり遊んでいると吉原遊廓が焼け落ちる」という俗信を考え出して口コミで広め、亭主どもの足を引き止めようとしたのである。 ま、要するに元々は苦肉の策としてのデマだったのですね。 これが「三の酉まである年は火事が多い」という俗説の起源なのだ。 何のことは無い、火事は火事でも「火宅」を防ごうとする、女たちの知恵だったのだ。 因みにこれは東京消防庁の公式(かもしれない)見解である。 今は吉原など無くなってしまったので、酉の市のオカメも熊手も開運のお守りになった。世の奥方達にはご同慶の至りである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.11.03 19:47:19
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