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カテゴリ:歴史・文化・美術・芸術
北海道立文書館(北海道総務部行政局文書課文書館)です。 12月に入り、今年も残すところ1か月を切りました。あっという間に年末がやってきてしまうのではと焦っておられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。 ところで、気分のせいではなく本当に12月が短かったことがあるのをご存知ですか。 それは1872(明治5)年の12月のことです。 この時まで、日本では太陰太陽暦(たいいんたいようれき)の一つである天保暦(てんぽうれき)を使用していました。 太陰暦とは、月の満ち欠けにより1か月を定めるものですが、そのようにして定めた1か月の12か月分では実際の1年より11日ほど短いため、太陽の運行によってさまざまな調整を加えました。それが太陰太陽暦です。ずれが蓄積して大きくなったときには閏月(うるうづき)を置いて調整したり、月の名前と実際の季節がずれてしまうので感覚を修正するために冬至や夏至、春分、秋分、大寒などの二十四節気(にじゅうしせっき)を設けたりしていました。 しかし欧米各国では太陽暦の一つであるグレゴリオ暦を使用していたため、同じ日でありながら日本の暦による日付と、欧米各国の暦による日付では異なる表記になっていました。 【資料1】 1865年(慶応元)、アメリカ合衆国領事から箱館奉行に対する文書の翻訳です。
を伝えた内容です。 黒文字の3行目に差出日付が「千八百六十五年七月一日」と記載されていますがこれは太陽暦による日付で、すぐ下に小さく「閏五月九日當ル」と天保暦による日付が注記されています。
こうした不都合を解消するため、日本でも太陰太陽暦に代えて太陽暦を採用することとしました。 ところがこの太陽暦への改暦が正式に発表されたのは天保暦の明治5年11月9日で、天保暦の12月3日を太陽暦の明治6年の1月1日とする、という内容でした。つまり、準備期間は1か月にも満たず、12月はわずか2日しかなくなってしまったのです。 この準備期間の短さは地方、特に遠隔地に混乱をもたらしたことでしょう。 【資料2】 開拓使の函館支庁から札幌本庁に出された文書(一部)です。
という内容です。 この文書が函館支庁から札幌本庁に向けて発せられたのが(天保暦の)11月25日、到着したのが11日後、(太陽暦の)1月5日となっています。 (欄外朱書)「明治六年一月五日到」 札幌上局御中 杉浦判官 今般太陽暦御頒布ニ付、東京出張處ゟ只今郵便を以 別紙摺本并御布告類到来ニ付、差遣申候。右改正之施行 方御布告面ニ基熟議致候處、十二月二日者大晦日之譯ニ而 祓式執行之旨教部省ゟ之布告ニも有之、三日を以第一月一日 と被相定候上ハ、則元旦ノ式執行可致者當然之儀と存候間、 當春正月之例ニ倣、元旦者拝賀之式執行、於廰中祝酒被下、同三日 まて休暇、同四日御用初之心得ニ有之候、尤其後ニ至り禮式改正等 之御布告有之候ハヽ東京表より申越次第施行可致候、當地ハ 右之見込ニ有之候間、此段至急申進候也 壬申 十一月廿五日午後第三時発 この情報を受け取った札幌本庁は、根室支庁に向けて文書を送っています。内容は
つづけて、次のような書面が添付されています。 【資料3】 札幌本庁での具体的なスケジュールを示し、根室でもこの御用状が届いたら札幌の例にならい歳旦の式等を行ってほしい、と書かれています。 旧暦十二月七日管内太陽暦頒布、依而 一月六日 旧暦十二月八日 歳旦之 拝賀 賜鋪饌 同 七日 円山神社江 官使正服備物ヲ進ム 同 九日 御用始メ 賜酒肴 同十一日 市在御禮 右之通執行候事 明治六年一月五日 松本正五位 追而於札幌昨年之振合之 通式相行候間、其表ニ御用 状着之上、右ニ照準御施 行被成度候事 この文書が根室に到達した日付は、綴じに隠れて見えないのか、そもそも書かれていないのかはわかりませんが、不明です。しかし札幌で発出されてから一定程度の期間を要したことは間違いないでしょう。さらに、北見、国後、厚岸、釧路、浜中、千島に伝達したことを示す書き込みがあることから、それらの地方にはさらに遅れて伝達されたことになります。 もし改暦を知った時には既に新年だったとなれば、驚きは小さくなかったことでしょう。 (出典) 【資料1】A1-3/17『各国官吏文通録』([箱館奉行所運上所])28件目 【資料2】簿書417『函館往復 追録 明治五壬申年』(開拓使札幌本庁庶務掛)7件目 【資料3】簿543『札函浦到来状留 四 五年自壬申十月至同十二月』(開拓使根室支庁庶務掛)76件目 (参考) 『日本史広辞典』(山川出版社、1997) 「太陽暦」「太陰太陽暦」「太陰暦」「二十四節気」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.12.02 11:02:22
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