「身延パワースポット案内」、ひとまず最終話。
身延町専属ライターの梅津です。皆さんこんにちは!北から南へと、町の中央を駆ける富士川。日本三大急流の一つにも数えられるその流れは、時に激しく川岸を削り、またある時は大らかな波を描いて駿河湾を目指します。かつてはこの波間を、富士川舟運がしぶきを上げて往来していました。富士川は甲斐と駿河とを結ぶ主要な交通路であり、舟運は慶長17(1612)年、徳川家康の命を受け、水運の父とされる角倉了以(すみのくらりょうい)によって開削されたものです。いまも山里の風景を残す身延町には、数々の伝説が語り継がれています。悲しい物語が多いものの、中には楽しい伝承も。例えばこの舟運にも・・。当時、西嶋の川岸に「おどれ木」という名の大ケヤキがあり、江戸時代の末、舟で富士川を下っていた御目付の役人が、このケヤキに目をとめました。「あの木は何と申すか」。役人が船頭に訪ねたところ、さおを差すことに専念していた船頭は、慌てて「おどれの木でございますか?」と丁重に問い返します。すると役人は「さようか、オドレギと申すのか♪」と早合点。以来このケヤキは「おどれ木」の名で呼ばれるようになり、人々に親しまれたとのことです。江戸時代中期の絶頂期には、300艘もの船が米や塩を運んだとされる富士川舟運。幕府の巡見使や、代官役人の検見の際にも、下り舟が多く使われました。その舟の上での長閑な一コマ。また、今や川底に隠れてしまいその姿を見ることはできませんが、寺沢の崖下には、戦国時代、武田信玄が戦塵を洗い流したとされる「洗濯石」があり、昭和初期まで岩を確認できたそうです。富士川は大雨や洪水などにより、たびたびその流れを変えてきました。危険個所が多く破船も絶えず、中でも箱原(天神が滝)、切石(馬の面石、博奕石)、宮木(屏風岩)などの難所は、船頭さんたちにたいそう恐れられたそう。その水難を救った者がありました。享保の頃、飯富に住んでいた古屋弥次右衛門(武田の重臣・飯富兵部虎昌の子孫とされる)という人物で、富士川の難を見かねて私財を投じ、難所の大岩を削り、浅瀬をさらいました。以来、破船は減少し、困難な石が発見されると人々は「弥次右衛門石」と呼んでその功績を語り伝えたとのことです。毎週金曜日、一年間にわたって町内のパワースポットを歩かせていただいたこの企画も、今回がひとまず最終話。町を訪れるたび清らかな表情で迎えてくれた富士川。その瀬音の奥に、たくさんの物語が眠っていました。静謐な空気に包まれていた神社や仏閣。路傍で人々の往来を優しく見守るお地蔵さま。触れると大らかな温もりを返してくれた古木や大岩たち・・。古く尊きものからいただいた温かな力を胸に、また新たな旅に出たいと思います。読者の皆様、拙い解説にお付き合い下さりありがとうございました。また快く取材にご協力いただいた町内の皆様に、心より御礼申し上げます。