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こんにちは、資料館です。 いよいよ、遊歩道の終点にある「矢立のスギ」編です。 江戸時代から様々な書物で紹介され、浮世絵にも描かれてきました。 その名の由来については、出陣する兵士がこの杉に矢を射立て、武運を祈ったことから「矢立ての杉」と呼ばれることになったとするのが一般的ですが、源頼朝の巻狩説、源為朝の強弓説など、諸説あります。 ここまでについては、ググるとすぐにわかる情報なので詳細は割愛します。 今回は、傍らに立つ説明板に記されている数値をもとに、矢立のスギの生育の歴史に迫ってみます。 -------------------------------------------------------------------- 県指定天然記念物 笹子峠の矢立のスギ 所在地 山梨県大大月市笹子町大字黒野田字笹子1924の1 種 類 スギ 指 定 昭和35年11月7日 所 有 山梨県 このスギは昔から有名なもので、昔の武士が出陣にあたって、矢をこのスギにうちたて、武運を祈ったところから「矢立のスギ」と呼ばれてきたものである。 そのような名木であるうえに巨樹であるために、県指定天然記念物にされているものである。 その規模は次のようである 根回り幹囲 14.80メートル 目通り幹囲 9.00メートル 樹 高 約26.50メートル 幹は地上約21.50メートルで折れて樹幹中は空洞になっている。 昭和50年10月 山梨県教育委員会 ------------------------------------------------------------------ なんと数値は昭和50(1975)年のもので、しかも「ようである」という不確かな断定?です。 そこで、過去の文献を調べ、幹囲(目通り)と樹高の数値を次の表にまとめてみました。 書 名 甲斐国志 甲斐叢記 北都留郡誌 県名木誌 市巨樹名木誌 県巨木誌 年 代 1814 1891 1925 1931 1969 1992 根 廻 ---- ---- ---- 10.6m 14.8m --- 幹 囲 6.9m 7.6m 10.0m 8.7m 9.0m 9.07m 樹 高 ---- ---- 60.6m 33.0m 28.0m 24.0m 折損部 ---- ---- ---- ---- 22.0m 20.0m
※甲斐国志には「山之部」と「古跡部」の2か所に記載がありますが、数値が違います。 ※書名の県は山梨県、市は大月市です。 ※『山梨県名木誌』(以下『名木誌』)以前の数値は尺表記をmに換算して表記しています。 植物も生物なので年を重ねると葉や茎の数が増え、幹や茎が太くなり、そして背も高くなります。 「異常値」と思われる『北都留郡誌』(以下『郡誌』)の数値を除外して幹囲の推移をみると、大きな空洞がありながらも、たくましく成長している様子がうかがえます。 しかし、樹高の経年推移は右肩下がりとなっているのはなぜでしょう。 風により頭頂部の枝が折れてしまったからでしょうか? また、案内板に「幹は地上21.50メートルで折れて」とありますが、折れたことにより樹高が低くなったのでしょうか。 と言うか、そもそも幹が折れたのは何時のことなのでしょうか。 そして、根本の空洞と何か関係あるのでしょうか。 幹が途中で折れていることや根元に空洞があることについては樹木の状態を紹介する際には外すことのできない事項です。 まして、古くから「名木」として知られていた「笹子峠の矢立の杉」です。 記載がない、ということはそれらの損傷がその時点では無かったと思われます。 ということで、樹高の記載のある4つの書物を読み直してみました。 まずは、幹が途中で折れていることについてです。 折損していることに触れているのは、『大月市巨樹名木誌』(1969)(以下『巨樹名木誌』)からで、それ以前の書物には記述がありません。 『郡誌』(1925)の「高二百尺」(60m)は眉唾ものですが、これが仮に正しいとすると『名木誌』(1931)の樹高はその半分の109尺(33m)であることから、この間に折れたと考えられます。 『郡誌』の巻頭に「笹子峠の矢立の杉」の写真があるのですが、これが不鮮明で、すでに折れているようにも見えるし、折れてないようにも見えて、なんとも判然としません。 『名木誌』(1931)にも写真があります。 撮影方向は違いますが、樹形がよく似ています。 こちらの方を見ると、幹は先端まで伸びていて、折れてはいない様に見えます。 次に、幹の空洞です。 幹の空洞については『名木誌』(1931)が初出となります。 「樹相」の項に、「明治四十年の大水害」により、樹皮を剥がされ、根はむき出しとなったために「樹勢は自然に衰へ、随って枝葉は繁らず樹相も餘振はざるに至れり」とあるのに続けて「幹は空洞なることは勿論なりとす」とあります。 また、「火災」の項には、「昭和四年十二月二日浮浪者の焚火に因り幹の洞内より燃え上がり樹梢に及ぶ惜むらくは、此の名木は枯死するに至らんか。」と、火災に遭い、枯れ死してしまう虞があるとも記しています。 『郡誌』(1925)には、「明治四十年大洪水の際其近傍の山岳崩壊し根本の半面を埋め樹皮稍々損傷せり」と「明治四十年の大水害」により根元が土砂で埋まり樹皮が「稍々」(やや)損傷したとありますが、根がむき出しになったことや空洞については特に触れていません。 そして、「現今、高二百尺目通周囲三十三尺、幹は蒼空を凌ぎ枝は迂り或は折れたりと雖も其葉蓁々として繁茂せり。」と、樹勢の強い様が書かれています。 空洞はともかくとして、根はむき出しになってはいなかったのでしょうか。 『郡誌』と『名木誌』の間には6年の月日が流れています。 6年間で樹勢がこうも衰えるものなのでしょうか? 数値にしろ、樹木の様子にしろ、『郡誌』の著者は実際に現地まで足を運んで執筆したのか疑いたくなります。 ここから先は憶測となりますが、外側からは健康そうに見えていながらも、かなり前より幹の内部では腐朽が進行していて、「明治四十年の大水害」により樹皮が剥がされ、傷ついた外側の部分からも腐り始め、昭和4(1929)年の火災の際には人が入り込めるほどの大きさの穴ができたのではないかと思われます。 そして、火災によって樹勢が弱まり、『名木誌』の書かれた昭和6(1931)年から『巨樹名木誌』が書かれた昭和44(1969)年までの間のどこかで強風等により幹が折れたのではないかと考えられます。 そして、折れたことにより、樹高が低くなったのではないでしょうか。 次回はいよいよ最終回、「笹子峠の矢立のスギ」にまつわる伝え話を科学的に考察してみたいと思います。 ※注意 いつものように、赤太字には原典資料のリンクが貼り付けてあります。 本ブログの内容を引用する場合は、必ずクリック(タップ)して原典を読んだ上でその真偽を判断した上でお願いします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年09月06日 09時21分33秒
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