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カテゴリ:まちづくり・地域づくり
太田宿の宝物⑮
宿場町には珍しい尾張藩地方役人出張役所(太田代官所)が開設されていました 尾張藩は太田宿が郡上街道や飛騨街道の分岐点で交通の要衝であることや、木曽川と中山道が交わるこの地を美濃地方の中心地であるとして、天明2年(1782)藩政改革として領内の10か所に代官所が設置され、太田宿には加茂、恵那、土岐の3郡(落合塾から鵜沼宿までの9宿)を所管する太田代官所が開設されました。代官のほか、手代(書記)6人、同心(警護)4人が勤務していました。明治元年8月、代官所が廃止、閉鎖されるまで86年間、この地の行政を司りました。坪内逍遥は手代の子として生まれ、明治2年に名古屋へ移住しました。 太田代官所の場所は、太田宿西入り口の虚空蔵堂の北付近で、現太田小学校が跡地になります。この地は低地であったため、2m程盛り土されて整備されました。昭和58年の水害時に、地元の人は小学校が高いことは知っていたため、車をグラウンドに避難しましたが、想定外の水位だったので被害に遭いました。参考に当時の被害写真と浸水図を添付します。浸水図の青い部分が高い地域で、この付近では太田小学校のグラウンド部分だけが目立ちます。因みに駅周辺も高いことがわかります。小学校の校舎は元は木造で現グラウンドの位置にあって、その後コンクリート校舎が低地に建てられ、58年の水害被害に遭いました。もし、木造校舎と同じくグラウンド位置に建てていたら被害は軽減されていたかもしれません。 坪内逍遥が描いた代官所の復元模型が中山道会館に展示されていますので、行かれた方は参考としてください。 明治23年に太田代官所跡地を南北に分断して虚空蔵堂から深田まで道路が整備されました。参考に現況の写真を添付しておきます。整備当時は小学校側も妙見堂側も玉石が積まれていました。 58災害浸水図(美濃加茂市9.28災害誌より) 青色部分の被害は床上10cmから床下浸水 太田小学校グラウンドが青色で埋め立てたのがよく分かります 58災害で太田小学校グラウンドへ避難した車両の被害 (太田小学校所蔵9.28あの日をわすれない...より) 代官所跡地を南北に分断した道路 両サイドが盛り土され高くなっているのがわかります お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年11月16日 09時39分31秒
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