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カテゴリ:歴史
風さそふ花よりも猶我は
また春の名残をいかにとやせん これは 元禄14年(1701)3月14日、江戸城「松の廊下」で、吉良上野介を切り付ける刃傷事件を起こした浅野内匠頭の辞世の句 とされている。 元禄15年(1702)12月14日未明、江戸本所に高家肝煎(こうけきもいり)吉良義央(きらよしなか)の首級をあげ、主君の仇を討った大石良雄以下47(46?)人、四十七士。 映画や舞台などでおなじみの「忠臣蔵」 そう、昨日 12月14日は、その討ち入りの日だったのです。 赤穂浪士が葬られた泉岳寺では、毎年討ち入りの日(旧暦12月14日深夜であるが、義士祭は新暦12月14日に行われる)に義士祭が催されている。 ただし、元禄15年12月15日は西暦の1703年1月31日。 敵役の吉良上野介(こうずけのすけ)は、通称は左近(さこん)。 官位は従四位上左近衛権少将、上野介で、官位名をとって吉良上野介と呼ばれる。 ということで、本日のお題 「忠臣蔵」 尚、昨日のお題は 「端がお好き?」←ご覧になってない方はこちらもどうぞ 年末になると舞台などで上演される「忠臣蔵」 ベートーベンの「第九コンサート」と同じく、年末の風物詩になってしまった。 この物語についてはよく知られているので、内容は省略するが、あまり知られていない浅野内匠頭の最期を書いた文書が現存している。 まずはじめにお断りしておくが、「忠臣蔵」は物語であるが、「元禄赤穂事件」は史実です。 刃傷事件後、幕府の命で浅野内匠頭の身柄は芝愛宕下(現 東京都港区)にあった旧一関藩の藩主・田村家に預けられ、同藩が浅野切腹までの準備をとり仕切った。 身柄を預かった旧一関藩の「田村家文書」に詳述されているが、それによると、浅野は刃傷事件があった当日の午後4時すぎ、一関藩邸内の座敷まで駕籠(かご)で連れてこられた。 座敷の周囲を板で囲って釘打ちし、室内には便器を設置。 一汁五菜の料理を出すと、浅野は湯漬けを2杯食べた。 その1時間後の午後5時ごろ、幕府から切腹の命が下った。 午後6時すぎ、藩邸内の庭に畳を15畳と毛氈(もうせん)を2枚敷き、周囲をびょうぶと段幕で囲って座敷同様にしつらえた場所で、浅野は切腹。 遺体は浅野家の家臣2人が引き取りに来たという。 文書はその光景を「なかなか目もあてられぬ様子どもにござ候」としている。 切腹前、訪ねてきた家臣と「主従今生の暇乞(いとまごい)」を交わし、辞世の句を残したとされているが、その記録が、同文書には一切記述されていない。 果たして辞世の句はあったのだろうか。 史実は上記のように、田村家文書には浅野が歌を詠んだ記録は存在せず、浅野と家臣が接触したのも切腹後と記されている。 このことから、わずか6時間の間に切腹前に歌を詠んだり家臣を呼んだりするのは時間的に無理なことであったであろう というのが実情であった と推測される。 忠臣蔵が今も広く親しまれるのは、史実に加え、忠孝の教えの観点から増幅された部分がかなりあり、それが物語性となっているのであろう。 また、ドラマなどでは吉良義央が浅野長矩に対して「田舎大名」などと罵ることがあるが、吉良が浅野に「田舎大名」などと言った根拠はない。 ただ、吉良上野介は三河国(愛知県)に領地を持つ旗本であり、浅野が播磨国(兵庫県)の大名だからであろう。 しかし、旗本とは自分の領地に入ることがほとんどない領主で、領地の支配は家臣を代官に任命して派遣し、すべてを任せている場合がほとんどで、自身はひたすら江戸幕府の役職に集中する。 そのため、旗本が自分の領地に自己意識を持つことなどはほとんどなく、江戸っ子という自己意識の方が断然強かった。 一方大名(特に外様大名)は領民や地元育ちの家臣達と触れ合い、領地に自己意識を持つ傾向が強かった。 そのため、身についた方言などがつい江戸でも出てしまったりして、旗本や譜代大名からは「田舎大名」と失笑を買うことがあった という。 このように、忠臣蔵はかなりの演出・創作が含まれており、必ずしも史実の通りではないのはいまや周知の事実である。 多数映画化され、テレビドラマ化、書籍の出版も多くなされているが、近年、価値観の多様化と多くの資料研究から、今までのような赤穂浪士の忠義一辺倒の一方的なものではなく、吉良側の視点をはじめとした別な角度からの作品化もある。 尚、余談ではあるが、日露戦争の停戦会議(ポーツマス会議)の仲介役となった第26代米大統領セオドア・ルーズベルトが、忠臣蔵の英語訳本を愛読していたとの逸話がある。 なぜか大学からアクセスの多い別ブログ やっと更新しました ●別ブログ12/10の新着は「激動の医薬品卸業界」 前回は「CAもプロレタリアか?」 こちらも見てね お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年12月15日 21時47分32秒
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