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カテゴリ:古典
さて、年も明け、新年の抱負は決めましたか? 大晦日の除夜の鐘で108つの煩悩は取り払われたでしょうか?
「思い込み Part-2」、「思い込み」で書いたように、つまらない思い込みはなくなりましたでしょうか? なかには、まだまだ煩悩がとれてない方がいらっしゃるかもしれません。 いつまでたっても反省もせず、(人が)「悪口を言ってる」というひねくれ根性 あ~んど 責任転嫁。 また (自分のせいじゃなく)「不景気のせい」などと社会への責任転嫁されている人もいるようですしね。 それで事件を起こしている怖い人もいます。 もちろん 今 話題になっている「雇い止め」や「派遣切り」は社会の責任はおおいにあります。 が、社会のせいばかりじゃなく、当人も反省するべきことはあるはず。 それをまったくしないで「オレは正しい、悪いのは●●」と言ってるのは、社会人としてちょっと未熟でしょう。 もっとも「好き勝手」で書いたように、未熟な人が教えている という社会構成がありますので、ムリのない面もありますが・・・ こういう人は「天つば」に遭う可能性が高いといえます。 事実 どう見てもそれに遭ってる人もいるようです。(私の知ってる範囲で昨年 何人か・・・) ン、「天つば」って? 天丼でもきんつばでもありません。 「天に唾を吐く」 Who spits against heaven spits in his own face. ●自業自得●身から出た錆●悪事身に返る という意味で、言い換えれば「自分で犯した悪事は自分に戻って来る」 「他人を害しようとして、かえって自分の身をそこなう」ことだそうです。 「汝に出ずるものは、汝に反る」 もっとも、「思い込み Part-2」でも述べたように、自覚のない人にはこれもわかりません。 単なる「運が悪いのだ」としか・・・ ま 人生 長くやっていればいいことも悪いこともあります。 実際 運の悪いこともあります。 しかし そのときにこそ(本当に運が悪くても)自己を振りかえり、反省することが運を呼ぶことになるのです。 それをせず、社会のせい とか、人のせい に責任転化していれば、運には見放されます。 別に神様を信じているわけではありませんが、なぜか そうなっていることを、今まで見てきています。 自分自身、および人の日常を見ていて・・・ もちろん 私自身 過去において「天つば」に遭ったことがあります。 前述のごとく、実際はそうではなかったかもしれないが、悪いことが続いたことがあったので、思い返してみると思い当たることがありました。 そう 実際はどうか じゃなく、自己反省する謙虚な気持ち これが大切なんです。 これなくして、「悪いのは●●」、「単に運が悪い」で済ませていれば、いつまでたっても良くはなりません。 さて、本日のお題 復活なった「神話のロマンとミステリーシリーズ」第11話 今までは女神さまばかりでしたが、今回は男の神様「称徳天皇(ショウトクテンノウ)」 1.お名前 称徳天皇(しょうとくてんのう) 2.別名 即位前の名は阿倍内親王。 生前は宝字称徳孝謙皇帝と称しました。 高野天皇・高野姫(こうやのひめ)天皇・倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)とも呼ばれたこともある。 法諱は法基尼(ほうきのあまぎみ)。 3.家族構成 父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子・こうみょうし)。 同母弟に夭折した基親王(もといのみこ)。 異母姉に井上内親王(いのうえひめみこ)、異母妹に不破内親王(ふわのひめみこ)、異母弟に安積親王(あさかのみこ)がいる。 3人とも、県犬養宿禰広刀自(あがたのいぬかいのすくねひろとじ)の御子である。 4.経歴 称徳天皇は、2度即位した天皇です。 1度目の名を孝謙天皇、2度目の名を称徳天皇と言います。 33歳の時、弟である基親王(もといのみこ)が夭折し、光明皇后に皇子が生まれなかったために、孝謙天皇として即位しました。 吉備真備(きびのまきび)を師と仰ぎ、深い儒教的教養を持ち、礼治主義的な政治を行います。 藤原氏が主導権を握る摂政政治を望まず、天皇自らが主体的に政治に関わることを目指しました。 しかしその時代は、疫病が流行し内乱が起こるなど世の中は安定しない不穏な時期でした。 その中でも特に大きな事件が恵美押勝(えみおしかつ)の乱、そして宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)です。 孝謙朝において、孝謙天皇は学才に優れる従弟・藤原仲麻呂を重用します。 この頃、道鏡が、孝謙天皇の病を治し、以後重んじられるきっかけになったと言われています。 その後藤原仲麻呂の「養子格であった淳仁天皇に譲位」します。 しかし 4年後には淳仁天皇と対立し、恵美押勝の乱が起こります。 恵美押勝は、仲麻呂の別名です。 対立のきっかけは「仲麻呂が、淳仁天皇を通じて孝謙上皇に道鏡への寵愛を諌めさせたが、これが上皇を激怒させた」ことに始まります。 恵美押勝の乱では、「仲麻呂は軍権をもって孝謙上皇と道鏡に対抗しようと、都に兵力を集めて反乱を起こそうと」企みます。 それに対し、「孝謙上皇は仲麻呂の邸に勅使紀船守を送り、官位の剥奪と藤原姓の剥奪を通告した。 その夜、仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出。 孝謙上皇は吉備真備を召して従三位に叙し仲麻呂誅伐を命じ」ました。 そして、仲麻呂は倒されました。 淳仁天皇は廃位され、孝謙上皇は、再び称徳天皇として即位しました。 称徳朝では道鏡を重用して法王の位を与え、また、師の吉備真備を右大臣に抜擢しています。 宇佐八幡宮神託事件です。 『669年、大宰府の主神であった習宜阿曾麻呂は、偽って豊前国(大分県)の宇佐神宮より天皇の位を道鏡に譲れとの神託があったと道鏡に伝え、道鏡はこれを信じて皇位に就く志を抱くが、和気清麻呂が勅使として参向しこの神託が虚偽であることを上申したため、道鏡が皇位に就くことはなかった』という事件です。 同年10月1日(11月7日)に称徳天皇、自ら詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言した。 称徳天皇は、後継者を定めないまま崩御します。 銅鏡は、その後、下野の国に左遷され、その土地でこの世を去ります。 一方、和気清麻呂は、称徳天皇の機嫌を損ね左遷されていましたが、桓武天皇に重用される事となりました。 日本の第46代天皇史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇でした。 この称徳天皇以降、江戸時代に至るまで850余年女帝は現れない事となります。 5.代表神社 西大寺(奈良県奈良市) 天平神護元年(765年))、恵美押勝の乱の平定を祈願して孝謙上皇(称徳天皇)が造立した寺院。 6.得意分野(ご神格) 鎮護国家と平和祈願 なぜか大学からアクセスの多い別ブログ ●別ブログ12/10の新着は「激動の医薬品卸業界」 前回は「CAもプロレタリアか?」 こちらも見てね お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年01月01日 23時29分30秒
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