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カテゴリ:歴史
世界的不況を反映してか、最近 偽1万円札がフィリピンで数多く見つかっているそうです。 今までになく精巧なもので、旅行者などが知らずに国内に持ち帰る可能性もあり、危惧されています。
偽ドル札は昔からあり、最近の大量な出回りには、一説では某国が関与している とのうわさもあります。 それに比べれば、補助貨幣であるコインは偽物も少なく、たいした問題にはなりませんでしたが、日本では自販機がいたるところにあり、被害金額もバカにならないそう。 そして、お札に比べて偽物を見破りにくいのもコインの特徴です。 しかし、このほど、警視庁科学捜査研究所が画期的な方法を開発したそうです。 ------------------------------------------------------------ 硬貨を金属に衝突させた音で偽造を見破るという新たな鑑定法を、警視庁科学捜査研究所が開発した。 小さな滑り台の上で硬貨を滑らせるという簡単な方法で、顕微鏡やX線を利用した従来の方法が数分かかるのに対し、数秒で真がんを判別できるという。 硬貨偽造の技術が上がる中、同庁は、精巧な偽造硬貨が大量に出回った場合の捜査に威力を発揮すると新鑑定法に期待を寄せるとともに、「自動販売機などにも応用できる可能性がある」として、特許を出願した。 新鑑定法を考案したのは、警視庁科捜研文書鑑定科主事の鈴木基嗣(もとつぐ)さん。 大阪大大学院で応用物理学の博士号を取得し、2004年から同庁技官を務めている。 新鑑定法の仕組みは単純だ。長さ約30センチの滑り台に硬貨を滑らせ、台の下に置いた真ちゅうのブロックに衝突した時の音をマイクで拾う。 その振動数をコンピューターで解析すると、材質や製造時の圧縮方法などで硬さや密度が異なる本物と偽物では、振動数に違いが表れるという。 「チャリンと音を立てて硬貨が中に落ちる貯金箱のイメージからスタートした」と、発案のきっかけを語る鈴木さん。 硬貨を衝突させる金属に何を選ぶか、どのような構造にすればいいか、試行錯誤した結果、約2年で完成にこぎ着けた。 科捜研に持ち込まれる偽造硬貨は民間では正確に真がんを識別しづらいものばかりで、これまでの鑑定は、顕微鏡による目視か、蛍光X線を利用した成分分析で行われていた。 いずれも1枚3~5分を要したが、新鑑定法では2~3秒しかかからず、一度に数百枚の偽造硬貨が持ち込まれても短時間で鑑定結果が出るという。 警視庁はこの方法をすでに導入しており、昨年は約100枚の硬貨偽造を見破った。 その中には、硬貨を傾けると「500円」の文字が浮かび上がる「潜像模様」まで精巧に細工された500円の偽造硬貨も含まれている。 場所をとらず、音のみで真がんを判定できるため、同庁では、自動販売機や、金融機関で使われる簡易鑑定機にも応用できる可能性があるとして、昨年、特許を出願した。 特許が認められれば、民間と連携して、一般でも広く活用できる簡易鑑定機などの開発に取り組むことも検討しているという。 警察庁では「警察が独自に開発した技術を特許出願した例は聞いたことがない」としている(2009年2月24日 読売新聞) ------------------------------------------------------------ まあ コインは単価も低いことがあり、あまり偽物が出まわらなっかたのですが、上記にも書いたように、自販機の被害金額はかなりの額になるそうです。 この方法が偽造鑑定に役立てば、大きな力になることでしょう。 ところで、話は変わりますが、京都の三十三間堂をご存知でしょうか? 妙法院の蓮華王院、いわゆる「三十三間堂」 そう、お正月行事にある「通し矢」の舞台としても有名なところです。 お堂の軒下、一直線に伸びた縁がその舞台。 毎年 お正月過ぎに晴れ着姿の新成人が弓を引いているニュースをご覧になった方も多いでしょう。 武芸が奨励された江戸時代に、弓術の腕前を競う場として最もふさわしい弓術スタジアムとして、通し矢の殿堂、京都の三十三間堂となったのです。 全長約120メートルの堂に並ぶ、1001体の仏像群。整然と並び、遠くまで続く金色の千手観音像。 その鈍い輝きと迫力に、何度訪れても圧倒されてしまいます。 なんというか、カッコいい。 それに京都駅から近いというのも、これまたいい。 京都の三十三間堂。 京都の三十三間堂と何度も書きましたが、「三十三間堂って京都しかないのじゃない?」と言われそうですね。 そう、現在は京都しかありません。 しかし、そんな三十三間堂が、東京(江戸)にも存在していたのです。 ということで、本日のお題は 「江戸三十三間堂」 尚、昨日のお題は 「睡眠預金」←ご覧になってない方はこちらもどうぞ 京都の三十三間堂は、同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり、同院が所有・管理しています。 元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、本尊は千手観音。 三十三間堂の名称の由来は、本堂が間面記法で「三十三間四面」となることで、これは桁行三十三間の周囲四面に一間の庇を巡らせたという意味です。 つまり柱間が33あるのは本堂の内陣(母屋)で、建物外部から見る柱間は35本あります。 さて、上記で書きましたが、東京(江戸)に存在していた「江戸三十三間堂」というのがありました。 東京の三十三間堂は、最初は浅草にありました。 創建は寛永19(1642)年。 現在、かっぱ橋道具街の近くにある矢先稲荷神社が、銅の鎮守でした。 神社にはこんな解説文が書かれています。 「三代将軍家光公が武術奨励のため、京都三十三間堂を模してこの地に三十三間堂を建立した」と、あります。 創建の翌年、寛永20年4月の落成では、将軍徳川家光の命により旗本吉田久馬助重信(日置流印西派吉田印西の嫡子)が射初め(いぞめ)を行った と言われています。 京都の三十三間堂の建立は平安時代の長寛2(1164)年(のちに焼失。 現在の堂は1266年の再建後のもの)で、平清盛が私財を投じたのだそうです。 江戸の三十三間堂は、その名の通り、京都の三十三間堂を模倣した建築物だったわけです。 浅草の三十三間堂は元禄11(1698年)に焼失しましたが、元禄13(1700年)に、今度は深川に再建された。 通し矢をはじめ、当時の人気スポットだったようですが、1855(安政2)年の安政の大地震で壊れてしまい、建物などはもう残っていません。 現在の江東区富岡2丁目、参拝客でにぎわう富岡八幡宮にほど近い場所、その道路ぞいに、三十三間堂跡」と刻まれた碑が立っています。 では、京都三十三間堂名物の、あの1001体の仏像、あれも江戸版に再現されていたのだろうか? 「千手観音を本尊にしていたところは、京都のものと同じなのですが、さすがにあのような数が並んでいたようなことはなかったようです」と、江東区教育委員会文化財係担当者。 作られたのが江戸時代ということから、東照宮の御神像が置かれていたらしいというのが、時代を反映していて、いかにもな感じです。 東京で三十三間堂参拝(跡碑だけですが)もできるのです。 なぜか大学からアクセスの多い別ブログ ●別ブログ2/25の新着は「謎の企業 B-CAS社」 前回は 「クレーマー保護者」 前々回は「アナログ放送終了」 こちらも見てね お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年03月06日 19時47分25秒
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