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カテゴリ:歴史
さて、今年は長野・善光寺 御開帳の年です。 「遠くても一度は詣れ善光寺」と言われてますが、今年は7年に一度の善光寺御開帳の年。 全国から多くの方々が参拝されると思います。
期間中 回向柱が本堂前に建立され、この回向柱と「前立本尊」との間に糸が結ばれるわけです。 この回向柱に触れることにより「仏様」の御心に触れることができると、すべての仏教宗派の人々が善光寺をお詣りするといわれます。 その回向柱を建てるのに、今年もまた保存会が人力での建立を行いました。 ------------------------------------------------------------ 善光寺(長野市)の本堂前に3日、御開帳のシンボルとなる回向柱が立てられた。 人力での建立を善光寺木遣り保存会が担うようになって5回目。 初の棟梁役を務めた会長代行の村井一雄さん(長野市)は、「まだ若い衆の面倒を見なくては」と、自らもつないできた技術の継承に決意を新たにした。 クレーンで柱をつり上げていた建立を人力で行うようになったのは1985(昭和60)年の御開帳から。 重機で石畳が傷むと善光寺が悩んでいると知った保存会が、交差させた2本の丸太を立て、木製ウインチを巻き上げて柱をつり上げる伝統的な方法を提案した。 長野市内外で建築業に携わる会員が多い保存会には当時、そうした技法を知る職人が多かった。 村井さんが初めて建立に携わったのは91年御開帳。 15歳で建築の道に入ったが、知らない技術は多かった。 前回の2003年御開帳では、技法を教えることができる数少ない会員の一人だった山岸久之助さん(長野市)の横で、最も重要で難しいとされる、交差した丸太をワイヤで縛る技を吸収した。 「次回は中心となって建てるという責任が生まれた」 その思いの通り、今回、十数人の会員をまとめる棟梁役に。 村井さんは2日、本堂前で丸太を組む際、会員の中から3人の若手を指名。 自らも先人から伝授されたように、一緒になって丸太の交差部分をワイヤで縛った。 その若手の一人、藤木孝則さん(中野市)は3日の建立式後、「次の御開帳に向けて訓練を続ける。 これが新たな始まりの日」と意気込んだ。 建立作業が終わり、参拝者が引き揚げ始めた参道に、山岸さんの姿があった。 病のため外出には車いすが欠かせないが、建立式の2時間前に家族とともに駆け付け、作業を見守った。 青空へと伸びる回向柱を見上げて「みんな、よくやった」。 技術が確かに伝わったことを確認した。(2009年4月4日 信濃毎日新聞) ------------------------------------------------------------ 尚、今年のご開帳期間は、平成21年4月5日(日)~5月31日(日)までとなっています。 私も今年は行ってくるつもりです。 また、善光寺は本拠の元善光寺の他、信州善光寺があり、山梨県甲府市に甲斐善光寺、愛知県稲沢市に善光寺東海別院、岐阜市には岐阜善光寺、関善光寺があり、六善光寺同時ご開帳します。 で、まったく関係ありませんが、本日のお題 「振袖大火」 尚、昨日のお題は 「銭湯 Part2」 ご覧になってない方はこちらもどうぞ 善光寺ではありませんが、東京のJR中央線には「高円寺」、「吉祥寺」、「国分寺」と中央線3寺と呼ばれる駅があります。 国分寺、高円寺にはそれぞれ同名のお寺がありますが、吉祥寺には、 残念ながら「吉祥寺」というお寺はありません。 この「吉祥寺」は東京都武蔵野市にある街で、東急百貨店・伊勢丹・パルコ・丸井・西友・ヨドバシカメラなどが立ち並び、井の頭公園も近くにあり、緑の多い町並みや図書館もあって充実した町並みで人気の高い町です。 さて、お寺がないのに、なぜ「吉祥寺」と呼ばれるようになったのか? 吉祥寺の由来は1458年(長禄2年)にさかのぼります。 太田道灌が江戸城築城の際に井戸を掘ったところ「吉祥増上」と印された金印が発見されました。 そこで、城内に寺を建立し一宇を設け、そこを「吉祥寺」と称したのが始まりといわれています。 吉祥寺は1591年(天正19年)に今の水道橋近くの神田台(駿河台)に移りましたが、1657年(明暦3年)の大火「振袖大火」で類焼しました。 その後、幕府の命令によって区画整理が行われ、文京区本駒込に七堂伽藍を建立し、移転しました。 この「振袖大火」というのが、ちょっと興味深いお話なのです。 ある娘さんが上野のお花見でイケメンのある男性に一目惚れしました。 そして、その娘さんは、その彼氏と一緒にいた彼女の振り袖に似せて振り袖をこしらえてもらいました。 ところが、彼女は、その一目惚れした彼氏に会うことなく、16歳の若さでこの世を去ってしまいました。 法事が済み、しきたりにならいその振り袖を古着屋に売りに出しました。 そして、ある娘がその振り袖を買いました。 ところが、その娘も、まもなく病に伏し16歳で亡くなりました。 それがまた、古着屋に出され娘が買いますが、その娘も16歳で亡くなってしまいます。 それで、その振り袖はたたりがあるということで、お寺で供養して焼き払うことになります。 ところが、その振り袖に火を付けたとたん強風が吹き荒れ大火になってしまった というお話です。 そのお寺は諸説あるようですが、本妙寺(巣鴨)と言われています。 この時、今の水道橋近くの神田台(駿河台)にあった吉祥寺も焼けてしまったのです。 これが「振袖大火」のお話のあらましです。 そして、門前の町人達はを失ってしまいましたので、1659年(万治2年)吉祥寺の浪士・佐藤定右衛門、宮崎甚右衛門が土着の百姓・松井十郎座衛門と協力して現在の武蔵野市一帯を開墾し、吉祥寺門前の町人達を移住させました。 移住した住人たちが「吉祥寺」に愛着を持っていたので、この地を吉祥寺と名付けた事から武蔵野の吉祥寺が生まれた ということです。 当時本駒込の「吉祥寺」は曹洞宗江戸三ヶ寺の一つで、僧侶の養成機関として梅檀林(駒沢大学の前身・1592年(文禄元年)創建)を持ち、千余名の学僧が学び、江戸幕府の教育施設、昌平坂学問所と並び称され たと聞きます。 吉祥寺には大学の類いも多いですが、奇しくも本駒込の吉祥寺は僧の学寮「梅檀林」を持ち、幕府の学問「昌平坂学問所」と並ぶ「文教の地」であったといいいます。 落ち着きある街並みに、学問の誉れ高い寺の名を持つ吉祥寺。 交通の便利さや商業施設の賑やかさの他、このようなゆかしい要素を持っていることも、住む地として人気を集め続ける理由のひとつかもしれません。 新コンテンツ 本日の短歌 (あ タンカではありませぬ) 己(おの)が身を 省(かえり)みもせず 他人を批判 人のふり見ぬ 身のほど知らず 大学からアクセスの多い別ブログ まったく更新してませんが・・・ ●別ブログ2/25の新着は「謎の企業 B-CAS社」 前回は 「クレーマー保護者」 前々回は「アナログ放送終了」 こちらも見てね お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年04月08日 11時24分03秒
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