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カテゴリ:歴史
現在 放映されているNHK大河ドラマ「天地人」の主に舞台となるのは、戦国時代。 ひたすら己の利のみを求める戦国時代に「愛」を重んじ、「義」を貫き通した武将・直江兼続。
主君・景勝をはじめ、師と仰ぐ上杉謙信や友人・真田幸村との深い係わりを主軸に、同時代の武将や妻・お船をはじめとする女性たちとの人間関係を通じて兼続の生涯が描かれている。 前回の「篤姫」は幕末、江戸幕府13代将軍・徳川家定の正室である篤姫(のちの天璋院)の波乱万丈の人生を描いたもの。 戦国時代から織田信長が天下統一した後期、そして 後継 豊臣秀吉、その後 関ヶ原の戦いを経て江戸時代を書かれた作品は多い。 しかし、「天地人」は大河ドラマ史上初めて関ヶ原の戦いに敗れた側の武将が主人公となる作品であり、今までの作品に比べ、「愛」や「儀」が重視されている。 真田幸村などは負けるのを承知で大阪の陣に出向いたのだ。 その活躍は「忠義」、「忠義 Part-2」参照。 戦国時代後期の織田信長から豊臣秀吉、徳川家康の天下人にとって切っても切り離せないところがある。 それは、尾張・清洲(きよす)。 ということで、本日のお題は 「清洲城」 尚、昨日のお題は 「陽炎(かげろう)」 万葉の謎です ご覧になってない方はこちらもどうぞ 清洲城は、尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場、旧西春日井郡清洲町)にあった城。 本丸のほぼ中央を新幹線が開通して以来、悲しいかな開発の犠牲の城。 遺構は本丸土塁の一部のみしか残っていない。 資料が残っていないため、現在の復興天守は"当時はこんな建物だろう"と、想像で建てられている。 清洲の町民たちが新天地へと引っ越しをしたのは、名古屋開府の際の「清州越し」だけではない。 織田信長が小牧、岐阜、安土と居城を変えるたびに、その城下町には清洲にちなんだ町名が登場している。 由緒ある神社の分祀(ぶんし)も行われた。 小さな「清洲越し」はたびたびあった。 岐阜の楽市場も清洲から商人を誘うねらいがあったという。 それは「信長が小牧へ移った直後は、生活を裏付ける陶器類などの発掘量が極端に減る」という愛知県埋蔵文化財センターの発掘調査でも裏付けられた。 清洲の町の人口が減ったに違いない。 にもかかわらず、清洲はしぶとく生き残った。 信長は留守番役の城代を置いていたし、小牧が廃城になると、その城下町から清洲へ戻った町民もいる。 本能寺の変(1582年)の直後、信長の後継者を決めるため、織田家の家臣が集まったのもやはり清洲だった。 清洲会議で、尾張と清洲城は信長の二男・信雄のものとなった。 清洲城の大改造は信雄から始まる。 この時期以降の地層から金箔瓦を含む10トン余の瓦が出土している。 板葺きだった武家の建物に、安土城以降 一気に瓦が普及した証拠でもある。 しかし、清洲城の歴史は曲折を重ねた。 小田原攻め(1590年)の後、豊臣秀吉は信雄を追い出して尾張を自分のものとし、甥の豊臣秀次、次いで子飼いの福島正則を城主とした。 1600年の関ヶ原の合戦後は徳川家康のものとなり、その四男・松平忠吉、忠吉の病没後は九男の徳川義直の居城とした。 つまり、信長、秀吉、家康の天下人3人がいずれも尾張を支配し、清洲城を押さえることを重視したのだ。 当時、大阪にはまだ豊臣秀頼がおり、家康にとって尾張は西国に対する備えの地の意味を持った。 それにふさわしい堅固で巨大な城と城下町作りに清洲では手狭だった。 また、川に近い低地で洪水への懸念もあり、台地上の名古屋を移転先に選ばせた理由という。 秀吉と家康・信雄連合軍が衝突した小牧・長久手の戦い(1584年)の際に、秀吉が配下の武将に出した書状中で、秀吉は「木曽川の河道を変え、清洲城下を水没させる」作戦に言及している。 このように、清洲城水攻めの具体的なプランがあったのだ。 家康にも清洲の弱点は見えていたに違いない。 慶長14年(1609年)徳川家康によって清須から名古屋への遷府が指令されると、慶長15年(1610年)より清須城下町は名古屋城下に移転(清洲越し)し、清須城も名古屋城築城の際の資材として利用された。 特に名古屋城御深井丸西北隅櫓は清須城天守の資材を元に作られたため「清須櫓」と呼ばれる。 3人の天下人の重要拠点でありながら、何の遺構も残っていない「清洲城」、まさに幻の城なのです。 今朝(6/8) 未明(3~5時頃)に27万OVERしました。 しかし、前回に続いて、またもや確認できず。 よって27万キリプレもお預け。 2時近くまでは待ってたんですけどね。 なぜか大学からアクセスの多い別ブログ 更新しました ●別ブログ 6/8の新着は「皆既日食」 前回は「なりすまし 実証」 こちらも見てね お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年06月10日 11時01分51秒
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