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カテゴリ:歴史
あかねさす 紫野行き標野行き
野守は見ずや 君が袖振る 作:額田王 万葉集より <あかね色に輝く、紫野・標野で、そんなに袖を振ったら、番人の野守りが見ますよ> この歌も前回書いた、「陽炎(かげろう)」と同じように、国語の教科書にもしばしば載っている有名な一首ですね。 ただ、学校の授業では大意そのままの意味に解釈されて、正確な意味はあまり教えられることはないかと思います。 まあ それは仕方ないでしょう。 不倫の歌とは教えにくいですから・・・ 額田王、天智天皇の妻です。 額田王は「野守」に見られたら困ると口では言っていても、袖を振ってもらえるのは嬉しい といったところでしょうか。 「袖を振る」とは、この時代の呪式のようなもので、恋しい人の魂を自分のほうへ引き寄せるように、おいでおいでと袖を振る恋の仕草のことなのです。 つまり 現代人が手を振るような軽い意味ではなく、この時代では明らかな求愛の仕草なのです。 この不倫の相手は、なんと 前の夫、大海人皇子(おおあまのみこ)、後の天武天皇です。 そして、大海人皇子というのは、天智天皇の弟。 なんだか現代の昼メロのストーリーのようです。 ここでちょっとお断りしておきますが、額田王は元は大海人皇子(弟)の妻でした。 兄の中大兄皇子(後の天智天皇)が、弟から嫁とったのです。(略奪ともいう) また この2人は兄弟ではない という説もありますが、これはまた後日にでも・・・ ということで、本日のお題は 「危険な愛」 尚、昨日のお題は 「枝豆」←ご覧になってない方はこちらもどうぞ まだ1日遅れが続いていますが・・・ 大化改新後22年。 時は667年、中大兄皇子(後の天智天皇)が琵琶湖を見下ろす高台に「近江大津宮」(おうみのおおつのみや)を築いたのはご存知だろう。 わずか5年半ほどの都であったが・・・ ある日、天智天皇らは蒲生野(かまふの:大津市の北東約30キロ 現在の東近江市西部付近)で「遊猟(みかり)」を行った。 兄、天智天皇のちょう愛を受けているが、額田王の姿を馬上から見つけると、大海人皇子は狩りの一群を離れて駆った。 額田王もひづめの音の高まりに胸が弾む。 「私 うれしい。 人目をはばかるゆとりもなく、ただ ここへいらして下さったことが・・・」 万葉集から見える人間ドラマを扱った宝塚歌劇の名作「あかねさす紫の花」(1976年初演)に登場する歌の誕生シーン。 作品は天皇と大海人、その2人の愛に揺れる額田王を描く。 思わぬ再会の喜びを、大海人は返歌に込める。 紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を 憎くあらば人妻ゆゑに我(あ)れ恋ひめやも 宝塚歌劇「あかねさす紫の花」は花組が初演して以降、再演を重ね、人気の高い作品となっている。 2002年8月の博多座(福岡市)での花組公演では、トップスターに就任した春野寿美礼(すみれ)さんのお披露目の演目に選ばれた。 『日本書紀』は天智天皇が端午の節句に合わせ、当時の都・大津をたち、蒲生野で大海人や中臣鎌足らを伴って「遊猟(みかり)」をしたと記す。 この中国由来の行事は「薬猟(くすりがり)」とも言い、男は薬になる鹿の若角(袋角)を取り、女は薬草を摘んだ。 蒲生野は、中心は現在の東近江市境に近い船岡山の辺りという。 ふもとに「蒲生野」と書いて「かもの」と読む地もある。 船岡山一帯は公園になり、大海人や額田王らの姿を焼き付けた、縦3メートル、横13メートル陶板の碑が建つ。 毎年秋 全国から募った短歌を顕彰し、万葉歌の朗詠などを行う「蒲生野万葉まつり」が市内で開かれ、四半世紀以上続いている。 後の壬申の乱の一因とも言われる「危険な愛」に溺れる大海人と額田王。 2人は一瞬でもいい、炎のような時を求めたのかもしれない。 「危険な愛」 やってみたい気もするが・・・ どうぉ~? <オマケ> 宝塚歌劇「あかねさす紫の花 第1場 蒲生野の御狩」 尚、私のブログ仲間、秘密の洗体レディさんが、この度 本を出すことになりました。 6/12 にamazonから発売されています。 「おくりびと」の実態をとくとご覧あれ。 本にはおもしろおかしく書かれてはいますが、実態はかなり悲惨なこともあります。 なぜか大学からアクセスの多い別ブログ ●別ブログ 6/8の新着は「皆既日食」 前回は「なりすまし 実証」 こちらも見てね お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年06月28日 01時27分05秒
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