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カテゴリ:トルコと日本と世界の出来事
【11月10日・火曜日】 1299年から1922年までの623年余り、世界に君臨したオスマン帝国に反旗を翻した炎の男ムスタファ・ケマル(のちのアタテュルク初代大統領)の築いたトルコ共和国は、先月29日、92回目の創立記念日を迎えた。 アタテュルク大統領はしかし、在位15年で執務中に病に倒れ、一進一退の病状を繰り返した後、1938年11月10日、ついに世を去った。なきがらを首都アンカラに運ぶ柩は、トルコの大国旗に覆われ、ドルマバフチェ宮殿から船でアジア側のハイダルパシャ駅に待ちうけた列車に移され、鉄路でアンカラに送られたのだった。 巨星墜つ、というのはまさにアタテュルク大統領のためにある言葉のようである。 臨終となった朝9時5分に合わせてサイレンが鳴り響き、国中のすべての交通機関、一般車両、歩く人々も足を止めて2分間の黙祷を捧げるのである。今年もアタテュルク廟と最後に息を引き取ったドルマバフチェ宮殿からの二元中継で、この模様は世界に発信された。 トルコの人々は思い思いのアタテュルクの面影を胸に、この偉大な指導者のために、「栄光の中でお眠りください」と祈るのだろう。 さて、私はこの6月、タキシム広場のケバブ屋が並ぶスラセルビレル通りの一角で、工事中の防護壁の建材に描かれたアタテュルクの横顔のカリカチュアをデジカメに収めたことがあった。 その時の日記 こちらから 工事が終わったら、捨てられてしまうのだろうか、と思ったのだが、思いがけなくこの工事現場のアタテュルクに再会したのだった。 工事用の防護柵や壁板は決して一度限りで捨ててしまうものではなく、あちらこちらで使い回しされる、というのはチュクルジュマのわが家の裏庭を、庭園として工事するためにこの空地の周囲を囲ったトタン板などに、ほかの工事現場で使われていたような張り紙とか書き込みなどがたくさん見られたことから知っていたのだった。 10月13日に外出した私は、イスティクラール通りのガラタサライ広場よりずっと終点のテュネルにちかい、陶器・ガラス、家庭用品の専門店、パシャバフチェに立ち寄ってガラス壜を買った後、イスティクラール通りをまたタキシム広場の方角に向かって歩き始めた。 するとほどなく、サン・アントワン教会の近くに工事現場があって、その防護壁として使われているあの建材を見つけたのだった。やはり再利用されていたのだ。心から嬉しいと思った。 だれもこの、世界一の英雄の絵のついた建材を粗末には扱うまい、と思われた。今日、私がアタテュルクの写真としてブログに載せるのは、どんな豪華な額縁入りのものよりも、やっぱりこれだ、とイスティクラール通りで写したアタテュルクのシンプルだけどよく特徴を掴んだこの工事現場の防護板の絵を飾ることにした。 あと8年後の2023年に創立100周年を迎えるトルコ共和国。アタテュルクも聖人メヴラーナが人々に言ったように、墓の中にはおらず、トルコ国民ばかりでなく、彼を愛し、彼を想うすべての人々の心の中で永遠に生き続けることだろう。 と、文章を結んだところで2枚を見比べてみたら、以前の写真とはなんだか微妙に違うのに気がついた。新しく見つけたアタテュルクは壁板の模様が違っているし、りりしい横顔はほんのわずか、向きの角度が違っている。そして以前の絵にはなかった襟元のボタンのようなものが描かれているのだった。 つまり、2枚は別な絵だったのである。しかしこの二つの絵のタッチはまったく同じで、もちろん同じ人が描いたに違いないと思われた。誰が描いたのか、アタテュルクのカリカチュア。 プロではなく、もしかすると工事現場で働く人の中に、画家だけでは食べていけない人が混じっていて、おそらく大好きなアタテュルクを、現場の入り口の目立つところに自ら描いたのではないか、と私は想像した。 工事現場の壁板にサラサラッと描かれたものなのに、下手な肖像画よりずっとアタテュルクらしくて、思わず足を止めてしみじみと見とれてしまった私です。見比べて下さい。 (10月13日に写したイスティクラール通りの新しいアタテュルク像) (6月17日に写したタキシム広場のアタテュルク像) アントニーナ・アウグスタ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015年11月16日 16時09分00秒
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