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カテゴリ:トルコと日本と世界の出来事
【1月24日・日曜日】 ムスタファ・コチ氏(56歳)は、トルコ最大の企業コチ・ホールディングの創始者、故ヴェフビ・コチ氏の孫に当たり、父ラフミ・コチ氏の後を継いだ三代目の運営組織委員長。偉大な祖父の薫陶を受け、人を分け隔てしないキャラクターで自社の工場で働く労働者達からも深く敬愛されている、トルコ経済界期待の巨星と言うべき存在だった。 1月21日朝8時台、自宅内のジムで体を鍛えている最中、突然心臓発作に襲われ、救急車で近くの国立病院に搬送され、応急手当てを受けたのち、ヘリコプターで、自らがオーナーであるコチ・ホールディング傘下のアメリカ病院に移送され、医師団による懸命な蘇生への施術も空しくその日の昼前後、まだ若すぎる生涯を閉じてしまったのだった。 このニュースはたちまちトルコ全土を駈け廻り、逝去から中2日置いた本日早朝から、折々雪もちらつく寒さの中、オスマン朝時代の由緒あるサンジャック(軍旗)に包まれた柩がウスキュダル区の自邸からマルマラ大学内のモスクに運ばれ、その境内で、エルドアン大統領、ダヴットオール首相、クルチダルオール共和国民党(野党第一党)党首など、内閣や政党の要人から、政財界の著名な人々が多数参列して葬儀が営まれた後、ジンジルリクユのコチ家の墓苑に埋葬された。 故人と関わりのある人もない人も、たくさんの弔問客でモスクの境内に入りきれないほどだったので、コチ家では、タキシム・ゲジ公園の向かいにあるエルマダーの自社の持ち物であるディヴァン・ホテルのロビーで、28日の木曜日まで弔問を受け付けるとのことである。 トルコ一のお大尽、遠い雲の上の人だと思っていた私も、誰もが言うように人のいい笑顔の裏で、若い時から大変な重責を担って、どれほどのストレスに苦しめられていたのだろうか、とふと気の毒な思いでいっぱいになってしまった。合掌。Mekani cennet olsun. 葬儀で、ムスタファ氏を偲ぶイマム(僧侶)の言葉に人々は涙をそそられた。 堂々たる偉丈夫。でも常に太り過ぎで心臓に大きな負担が掛かっていたと言われるムスタファさん。 さて、同じ日に葬儀の行われたもう1人のカメル・ゲンチ氏は、トルコ国民大議会の野党第一党CHP(共和国民党)の長老格の議員で、トルコ東部トゥンジェリ県の出身。 1987年から30年近い政治家歴を持ち、国民大議会の人気議員でもある。正義漢として知られ、議会の中継などで見ると閣僚とも丁々発止のやり取りをする人だ。 この人は自身、貧しい家庭から身を起こしたが、法律や政治学を学び、ダヌシュタイ(国民評議会)試験に合格して検察官などを経験、1987年から国民大議会に当選、一度所属した党が比例代表制である大議会の最低得票率を越えられず無念にも落選したが、5年後の2007年無所属として立候補して議席に復帰、その後2010年からCHPに所属して活躍していた。 1年ほど前から膵臓癌の治療を受けていたが、1月22日、闘病生活も空しく鬼籍の人となった。カメル氏のなきがらはイスタンブールのモスクで葬儀が行われたのち、故郷のトゥンジェリ県ナズミイェ郡の生家の墓地に埋葬されると言う。ムスタファ・コチ氏の葬儀を終えて駆け付けたクルチダルオール党首や党の首脳部他、カメル氏の人柄を愛する人々が大勢参列して肌をさすみぞれ模様の中での葬儀だった。 私はカメル氏が亡くなってから知ったのだが、自分の議員としての歳費に当たる給与はすべて、トゥンジェリの各学校に寄付し、貧しい子供達への奨学金にしていたのだそうだ。魑魅魍魎のはびこる政界で、生涯、汚職などとは縁がなく清貧を貫いたカメル氏。合掌。Nur icinde yatsin. トルコのウィキペディアによると、彼は学校時代の同窓生だった夫人のセヴィムさんの父親にイステメ(嫁に貰いに行く)で反対されたが、当時親に逆らうなど考えられないトルコの風習を破り、セヴィム夫人自らが父親の反対を押し切って結婚に同意したのだそうだ。 かっこいいなあ、夫妻そろって。 不正を許さない本当の政治家、元気だったころのカメル氏。 国会中継をずっと見ていられることはめったにありませんでしたが、 あ、カメルさんがまたやってる~と思えることは何度もありました。 アントニーナ・アウグスタ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016年01月28日 21時44分42秒
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