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カテゴリ:トルコと日本と世界の出来事
【6月7日・火曜日】 朝、昨日と同じ8時半過ぎにタクシーで家を出て、アンタルヤの万博に出展する大宮盆栽の田畑理事さんの泊まっているプチ・ホテルにお迎えに行き、夕方アンタルヤに飛ぶ彼の荷物もすべて積んで、空港の隣の敷地にあるルイスさんの植物園に向かった。 オーナーのルイスさんは昨日、万博会場に飾る盆栽6鉢の積み込みの終わったトラックに同乗し、午後10時頃イスタンブールを出発しているので、今日は植物園には田畑さんが行って、残された盆栽の手入れを夕方までしてから、アンタルヤに18時30分発の便で出発することになっていた。 私の方は、真夜中2時過ぎにアゼルバイジャンとグルジスタン(ジョージア)旅行から戻った娘が今夜遅く日付けが明日に変わってから日本に帰って行くので、最後のひとときを一緒に過ごそうと、田畑さんから許可を得て午後1時で早や上がりさせて貰うことになっていた。 10時少し前、私は外にいるとあとあと離陸して行く飛行機の爆音に妨げられて電話が出来ないので、庭に面したカフェ・レストランに入り、アンタルヤで田畑さんについて通訳その他の用事をしてくれる、現地のミツヨさんと連絡を取ろうとしたら、娘から電話がかかって来た。 「お母さん、あ、大丈夫だったのね、今どこにいるの?」 「フローリアで盆栽の仕事をしているよ」 「ああ、それならよかった。私も今知ったんだけど、9時少し前にヴェズネジレルでテロが起きて大きな爆発事件があったらしいの、また聞きだけど、機動隊のバスが狙われたんだって。お母さん、気をつけてね」 「ええーっ、また~?」 私は思わず絶句してしまった。 「分かった、お前もあっちの方に行っちゃ駄目だよ」 「今日は新市街だけだから大丈夫」 「じゃあ、2時までに約束の場所に行くからね」 「うん、今日は私が奢るから好きなもの食べていいよ」 そのあと、私はミツヨさんと夕方以降のための打ち合わせをし、また爆弾テロがイスタンブールのど真ん中で起こったことを告げると、彼女も途端に声が暗くなった。 折りから小雨が降って来たので、カフェの中に入った田畑さんにも爆発の話をすると、肝が据わっていて余り驚いた様子もなくiphoneを取り上げ、ニュースを見て「11人犠牲者が出たようですね」と教えてくれた。 えええ、またまた11人も・・・ がっくりしてしまった。 後で知ったのだが、亡くなったのは機動隊員6人と付近にいた普通の市民5人だという。36人が重傷で近くの病院に搬送されたそうだ。もちろんその犠牲者の遺族や亡くなった本人が一番気の毒だけど、トルコの観光業界はもう崩れ落ちたも同然である。 今後トルコはどうなってしまうのだろう。 心よりご冥福をお祈りします。 午後1時少し前、私は交通費を節約しようと、娘とその友人に出会うタキシム広場に近いホテルまでタクシーを飛ばばすのをやめて、ドルムシュに乗った。ドルムシュなら6リラ、タクシーは60リラくらいなのだった。ところが昼間の1時では、いつ満員になるか分からない。20分以上経ち、1時15分を過ぎても乗客はまだ私と若い娘さん一人だけ。 30分近くも待った揚句にそれでも出発しないので、とうとうタクシーに乗り換えた。ところがこの人がいい運転手さんで、爆発事件のあった場所の近くを通らないよう、空いた道を探しながら、ぴったり2時にホテルの前に横付けしてくれたのだった。 娘の友人は、私ともFacebookの友達であり、イスタンブール留学中には何度か出会ったことのあるマナミさんだった。彼女は昨年日本で就職したので、今回はトルコ訪問団の随行で来ているのだそうだ。 普段ではめったに食べられない豪華なランチ。しかし、朝の事件のことを思うと、お互いトルコに深くかかわって仕事をしているだけに辛いものがある。心持沈んだ気分で「献杯」し、そのあとは3人でいろいろ語らいながら1時間少々、昼餉の膳を楽しんだ。 目の前にすごいご馳走が・・・・ イスタンブールでは、クォリティの高い和食が楽しめます。「ディヴァン・ホテル内 円味(まろみ)」 ほんの短いひとときだったが、元気いっぱいのマナミさんと会えただけでも、テロ事件で沈んでいた気持ちが引き立てられる思いだった。マナミさんがアンカラに向かうのでそこで別れ、私達は板長さんがサービスに出してくれた日本茶を頂いてから、タクシーで街に出た。 それぞれにまだ用事があるので、行く先は別々、私は途中で降ろして貰い、用事を済ませてから家に戻ると、娘も間もなく戻り、荷づくりが始まった。 会えなかった友達に、和食の土産を郵送するための箱に猫が入ってしまいます。タマオ―! 7日朝のご飯、夜遅く帰宅した娘のために、焼きナス、ツナサラダ、 ミョウガの梅酢漬け、ねぎと溶き玉子で、さっぱり系のご飯です。 冷麺の作り方を間違えた私、親として失点かなり大となりました~。 東京にいる家族に、と知り合いから頼まれた荷物があってそれが15キロ、例年のごとく山のようなトルコ土産が20キロ弱、自分のスーツケース2個も中身ぎゅう詰め、どれほど超過料金を取られるか、と青ざめている始末。 最後に7時半頃、焼き立てのラマザン・ピデをゲットするためパン屋に行き、10枚くらい買ってきて、冷ますために寝室に広げた仕切り紙の上に1枚ずつ載せて1時間ほど放置。その間に私は冷麺を茹でて最後の食事の支度をした。 「お母さん、冷麺て食べたことないの? これじゃ冷やし中華と同じじゃないの、つゆに浮かべて食べるんだよ、見た目は普通のラーメンみたいで冷たくするの。それにまだ生温かいし・・・キンキンに冷やさなくちゃ」と娘が不服申し立てをした。 「エイワー、ヤンヌッシュ・ム・ヤプトゥム?(アリャリャ、間違ったことしたかい、私?)」←まずいことをした時は、照れ隠しというか、トルコ語を口走ってごまかす。 「説明書も読まずに作ったでしょ、袋の後ろにホラァ、絵入りで書いてあるじゃん」 その通り、見もせずに作ってしまったよ。 かくて娘はまた来年まで来るチャンスのない日本の仕事場に帰るため、タクシーで空港に向かった。11時を幾許か回った頃だった。 たまにこうして来ても、仕事上の役目も背負っているし、取引先、旧友、付き合いが広いので、友達とゆっくり会う、ということもなく連日あちこち移動。私同様、付き合い負けしていつも懐ピーピー。家の前でタクシーを見送りながら似たもの親子だなあ、としみじみ思った。 アントニーナ・アウグスタ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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