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カテゴリ:やっぱりトルコが好きな私
【9月18日・日曜日】 私が千香子さんとピクニックの約束をした朝、テレビのニュースではトルコ映画界にとって「巨星墜つ」とも言うべき悲報が伝えられていた。硬派の性格俳優第一人者のタルック・アカン氏が、1年余りの闘病生活も空しく、66歳と言う、現代では信じられない若さで癌を克服出来ず、この世を去ってしまったと言うのだった。 私は、1990年、NHK総合TVで、初めて見たトルコ映画「Yol(路)日本語字幕」が、そのタルック・アカン主演で1982年にカンヌ映画祭の大賞に輝いたものの、当初トルコ国内では上映禁止だったため、トルコ人の多くはこの名画を観ることもなく、またたとえ外国に行った際観たとしても、それが判明すると、逮捕されたり禁固刑を申し渡されて罪人となってしまうと言う話まで聞こえていた。 そう言う話題作だったので、トルコにいる娘が帰郷した際に見せようと、ビデオテープにも録って自分も字幕を頼りに、繰り返し繰り返し観たものだった。その後、1999年にはトルコでも劇場公開解禁となり、1995年にトルコに移住していた私が、娘と2人でとある大学のホールで並んで観賞することが出来た。 既に私ももう字幕が無くても理解出来るようになっており、というのも、字幕のほとんどを暗記してしまっていたせいもあるかもしれないが、トルコで映画を見られたことに改めて感動したのだった。 タルック・アカン氏は、若い頃にイケメン・コンクールで優勝、映画界に入り、シュマルック(わがまま・甘ったれ)な役どころで、お坊ちゃん俳優としてロマンティック・コメディーで大活躍したのち、28歳を過ぎてから伝説的な巨匠ユルマズ・ギュネイ氏を知り、思想問題などで投獄されていたギュネイ氏が友人を監督に立てて制作した Sürü(群れ)という映画で主役を演じたことが彼の俳優人生を180度変えることになった。 彼自身も伝説的な名優として人々の記憶から消えてしまうことはないだろう。 【我々は、君を忘れはしない】と書かれたこの写真はFacebook公式サイトから拝借しています。 1982年カンヌ映画祭パルムドール(黄金の棕櫚=大賞)に輝いた作品 その時からタルック・アカン氏の、甘いマスクが売り物の美男俳優としての役柄ががらりと変わり、顔の半分を覆う濃く長い髭面の貧しいクルドの男を演じ、1981年、ギュネイ氏が表向きには別な監督を立て、獄中から腹心のその監督に意向を伝えながら、渾身の想いを込めてメガホンを取ったと言われるこの「Yol (路)」では、マルマラ海に浮かぶイムラル島の刑務所から、バイラム恩赦で1週間の休暇が出たとき、重い苦悩を背負ったまま故郷の妻に会いに行く寡黙な男、主人公のセイット・アリを演じたのだった。 カンヌの映画祭でも、最優秀主演男優賞の候補になったほどのこのときの重厚な演技で、彼のその後は、国内の映画賞で何度も最優秀主演男優賞に輝き、私生活でも当時の国家に反発し、ロシアに亡命した詩人ナーズム・ヒクメットや詩人・映画監督・音楽家のズュリュフ・リヴァネリ氏や、演出家ゲンジョ・エルカル氏、そしてこちらも生粋のケマリスト(アタテュルクに敬服している人)で、大物俳優として知られたルトカイ・アジズ氏などと親交を持った。 その、タルック・アカン氏が66歳の若さで癌に倒れた事は余りに無念、口惜しく、この国民的俳優を悼んで、トルコの人々は朝から長い行列を作り、ハルビエのムフシン・エルトゥールル劇場でお別れ会に集い、ここには第10代大統領アフメット・ネジュデット・セゼル氏はじめ、親交のあった人々が駆け付け、ゲンジョ・エルカル氏がファズル・サイ氏のピアノでオラトリオを演じ、別れを惜しむ著名人のスピーチが行われた。4時過ぎからは劇場から程遠からぬテシュヴィキエ・ジャーミイで葬儀、その際は野党第一党のCHPのリーダー、ケマル・クルチダルオール氏も参列、そして夕刻にはタルック・アカン氏が幼少時代を過ごしたバクルキョイのズフラット・ババ墓苑に埋葬されるまで、長い葬列は続いたのだった。 ファズル・サイ氏のピアノで、オラトリオを独演するゲンジョ・エルカル氏 テシュヴィキエ・ジャーミイでの葬儀 クルチダルオール氏の背後に2人の息子 沿道を埋め尽くした市民の間を、そろそろと進む霊柩車 埋葬されたあとも、いつまでも彼の死を悼んで、ズフラット・ババ墓苑から立ち去り難い人々が、暮れなずむ空の下、三々五々行きつ戻りつしている光景が胸に迫った。(テレビ中継から) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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