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カテゴリ:トルコと日本の文化交流
【4月8日・土曜日】 イスタンブール在住の日本女性やその娘さん達のグループ「芙蓉の会」が、今年もまたアジア側カドゥキョイ区のアタシェヒールの国道の、インターチェンジの内側にあるエルトゥールル公園で、エルトゥールル号遭難者追悼式典に先立ち、お箏の演奏を披露することになったので、私も招待して頂いた。 特に今年は楽しみが一つ増えていた。昨年の私の誕生日に、メフテル軍楽隊のコンサートに行って一緒に祝ってくれたメフテル仲間の七緒さんに、「来月、芙蓉の会のコンサートにも行く予定があるのだけど、あなたも行ってみる?」と聞いたところ、七緒さんは目をパッと輝かせた。 1ヵ月余り後、昨年4月30日の土曜日、私も4月の後半は仕事が入っていたが、それがすっかり片付いたので、七緒さんを誘ってコンサートの梯子をしよう、とまずはメフテル軍楽隊のコンサートに、そして終わるとすぐ4時にはもう軍事博物館を出て、近くのドルムシュ乗り場からベシクタシュ、そして船でウスキュダルへと向かったのだった。 ウスキュダルのネヴメキャンという小ぢんまりしたホールで、芙蓉の会のコンサートをまのあたりにした七緒さんは、高校時代に部活でやっていたとき以来の箏の音に聞き惚れて、ぜひとも自分もやりたい、と言うのだった。 芙蓉の会の創設者で主宰の寺田わかこさんに彼女を紹介し、いずれ改めて入会に関してお問い合わせをさせて頂きます、とその日は別れた。 七緒さんもその後わかこさんと連絡を取り、話もとんとん拍子に進んで5月には入会申し込みと、初の稽古を兼ねてわかこさんのお住まいを訪問し、下の階にある教室で手ほどきを受け、晴れてメンバーの一人として採用されたのだった。 七緒さんは何か始めると非常に熱心に打ち込む性格なので、箏と小道具も自前で揃えた。昔取った杵柄でもあり、たちまち勘を取り戻して、わかこさんが「いい方をご紹介して頂きました。少し慣れてくれば即戦力にもなれる人で、有難いです」と私に言ってくれるほどに上達した様子だった。 だからこそ今回の桜の季節のエルトゥールル号追悼式典は七緒さんにとっても初の大舞台でもあるし、何をさておいてもと、ほかに七緒さんの招待した人々とも連絡を取り合っていたのに、とんでもない落とし穴が待っていた。 トルコは今、憲法を改変し、中立でなければいけない大統領は自分の党を支持出来るようにし、権力の一極集中化を目指すAKP(公正発展党)が「エヴェット(イエス)」の票集めのために、このところ各地を遊説し、この8日は、ヨーロッパ側のマルマラ海の沿岸にあるイエニカプAKP集会場で、大規模ミーティングを開くことになったのである。 一方党首ほか首脳メンバーが昨年のクーデターに関わったとして収監中のHDP(国民民主主義党)も、AKPの独走は許すまじ、として「ハユル(ノー)」の支持者を増やすために、カドゥキョイの郊外の広場でミーティングを開く。 しかし、AKPは財力が違うので市民の足である連絡船の大多数をチャーターして、ミーティングに参加する人をボスポラス海峡沿いの波止場と言う波止場に船を迎えに出し、ボスポラス海峡クルーズ並みの行楽気分で、悠々とイエニカプの集会場の埠頭に連れてくる大作戦を展開している。 アジア側の港から行く人の話では、日当も出る、弁当も出る、船で最寄りの港まで送り迎え付き、という特別待遇だから、と失業中の人でも子供連れでもがんがん行くらしい。 そのせいで、ヨーロッパ側とアジア側を結ぶ連絡船が、市営航路でも民営航路でも極端に間引きされてしまい、市営のカラキョイ~カドゥキョイ、エミニョニュ~カドゥキョイは、普段ならそれぞれの波止場から1時間に3回(20分おき)ずつ船が往復するのに、あとになって分かったのだが、今日に限って1隻だけが、カラキョイ~エミニョニュ~カドゥキョイを、1時間半かけて巡航しているのだった。 船の中で脇の席の乗客達が話していたが、連絡船をこうまで減らしたのは、海底トンネルのマルマライを大混雑させて、ハユル(ノー)の集会に行く人々を時間どおりに集まらせないように妨害しているのだとか。それが本当かどうかは分からないが、市民もこういう騒ぎにはうんざりしている人も多く、こんなうがった、憶測めいた意見も口から出るのだろう。 今日は何があっても遅れないように、と早くから家を出て、なかなか空車の見つからないタクシーをジハンギルまで出てやっとつかまえ、カラキョイ埠頭に行って貰った。12時をちょっと回ったところで、もうカラキョイに着き、発着時刻が12時20分発でも乗れると胸を撫でおろしていたら、いやはや、とんでもない、時計が1時を指してもカラキョイの波止場に接岸する船など来ないのだった。 待てよ、今日は対岸に見えるエミニョニュ側にも船が停まっていないなあ、ガラタ橋の下を通って金角湾から出入りする船も極端に少ないなあ、と、まだ私も船が買い占められた、とは気づかなかった。それに、カラキョイ埠頭の待合室から、船の発着を示す電光掲示板も何もかも取り払われてしまっているのに気が付いた。 警備職員にも「今度来る船は何分発の船ですか?」と聞いたら「5分のうちに来ます。来れば旅客が乗船次第すぐ出航します」と言う。聞いたことに答えてないのだ。 1時5分過ぎ頃、大型の連絡船サリエル号が近づいてきたが、船首をガラタ橋の方角に向けたままである。降りる人がほぼ済んでからでないと、乗る人のサロンの扉は開かない。たいそう時間がかかり1時15分にやっと動いた。ところがそのまま船は金角湾の方に向かい、橋の手前で大きく向きを変え、エミニョニュ埠頭のカドゥキョイ行き待合室ではなく、バックでボスポラス海峡クルーズの出るサロンの前で停まった。ものすごい人波である。長い行列が出来ていた。 すると船からどんどん降りる人も出てきた。ということはカドゥキョイからエミニョニュ行きに乗って来た人達なのであろう。ああ、私はやっとそのとき気が付いた。1隻だけで3つの港を行ったり来たりしていることに。 「この船、どこに行くのですか?」 これも船の警備員に聞いたら、大むくれな口調で「ハヌムエフェンディ、カドゥキョイですよ、カドゥキョイ! カドゥキョイに行きたいなら、あなたも席について座って下さい!」 やがてエミニョニュの長い行列も全員が乗り終わって船内が一杯になり、カドゥキョイに向けて船は出た。もう1時半を過ぎている。私も一番奥の席に腰を下ろした。そのとき電話が鳴って出て見ると、今朝、10時頃に私が掛けた時、聞こえなかったのか、まだ眠っていたのか出ないため一緒に行こう、と言う打ち合わせの出来なかった大学の法科の先生、アイシェさんだった。 いい具合に同じ船に乗っているのが分かり、2階にいたアイシェさんが下りて来て、気がはやるので、一刻も早く降りようと、2人で真ん中の出口の辺りに陣取って、船がもとのハイダルパシャ駅の前を通過するとほどなく、普段は考えられないほどの人数を乗せた、大型連絡船サリエル号はカドゥキョイ埠頭に接岸した。急いで広場に飛び出し、タクシーをつかまえるため小走りに走って広い通りを渡り、トラムワイの線路の上で1台空車が見つかり、乗り込んだ。 幸い、若いがよく道を知っているお兄さんだったので、複雑にあちこちルートを変えながら、効率よく走って、会場のネザハット・ギョクイーイト植物庭園の入り口に2時15分には到着、警備員に扉を開けて貰い、国道から見えるミマール・シナン・ジャーミイのあるアナドル・アダス(アダ=島・転じて地区)を抜け、足がもつれるほどの急ぎ足で延々と競歩のように飛ばし、小トンネルをくぐり、とうとうエルトゥールル・アダスの入り口の、2つ目のトンネルの前に出た。 そこでたばこを吸って談笑していた数人が、「大丈夫、30分遅れでいま始まったばかりだよ」と教えてくれた。わあ、よかった~と喜び勇んで二つ目のトンネルをくぐり抜けると、皆さんが静かにこの庭園の持ち主でANG財団総裁のニハット・ギョクイーイトさんのお話を聞いていた。私はニハットさんが開会式の挨拶をしている、と思いこんでしまった。私達も静かに後ろの方に着席した。 エルトゥールル公園の入り口の近くにある孔雀の苑。真っ白い孔雀がきれいです。 やっとコンサート会場に着きました。お、お、七緒さんの姿が見えます、万歳! 笹谷筆頭領事さんのご挨拶。トルコ語で爽やかにスピーチされました。 芙蓉の会の創立メンバー、裕美さんと縁(ゆかり)さん。着物が板についていて素敵。 七緒さん、黄緑色の着物がとてもよく似合います。 海軍のバンドから、今年も朗々たる独唱で「さくら・さくら」、「いい日旅立ち」など。 わかこ先生と、フルートで参加しているアスィヤさんと妹ネヒルちゃん。 ギョクイーイト総裁から今年も協力した事で感謝状を頂いたところです。 続いて日本国総領事館笹谷筆頭領事さんのご挨拶、そのあと海軍のブラスバンドで、ボーカルの大尉が日本語で「さくら・さくら」や「いい日旅立ち」、その他日本の歌を披露、そして最後に再びニハット氏が登壇して活躍した人々に表彰状を手渡し、エルトゥールル・アダスでの「エルトゥールル号遭難者追悼式典」は終わりを告げたのだった。 だんだん分かってきたが、あのたばこを吸っていた人達は来賓の方々の運転手さん達だったのかもしれない。トルコでは、こういうのを嘘とは言わず「キバルルック」といって、困った人に真っ赤なウソではなく、ソフトなピンク色の嘘をついて慰めの言葉にするのである。 結局、私達はやっぱり、大規模ミーティングと日取りがぶつかったために、お箏の皆さんの演奏を聴き逃してしまったのだった。庭に置かれたプラスチックの椅子は片付け始められ、隣の地区、アナドル・アダスの屋外劇場の催し物を見に行く人々が去って、お箏関係者の幾人かが残っているところに、ひどい渋滞でファーティヒ・スルタン・メフメット大橋が渡れずに、立ち往生していたメティンさんと宣子夫人がやっと到着した。 かくて肝心のお箏が聴けなかった、と言うことを除けば、七緒さんのためにイスタンブールの西の果てから、東の果ての遠い道のりを来てくれたメティン・宣子夫妻や、アイシェ先生にも無事に会えたし、何よりも七緒さんを応援しようと集まった、会った事のない同士がみんな互いに初対面を果たしたことだし、七緒さんを温かく育ててくれているわかこ先生ともお話が出来て、逃したもの以上に大きな繋がりを持てたことは確かだった。 遠くから駆け付けてくれたのに、たいへんな渋滞に巻き込まれてしまった メティンさんと宣子さん夫妻。七緒さんとアイシェさんも大喜び。 メティンさんは宣子さんと巡り合って、幸せ太りが気になるとのことです。 みんなで手分けして荷物を持ち、七緒さんをエスコート。退任果たしてご苦労さま わかこさんから私達にも、サンドイッチとジュースが配られ、七緒さんも着替えたあと皆のそばに戻った。今朝ウスキュダルの船着き場からここまで連れて来てくれたと言う、友人レイラさんに帰りも送って貰う約束だったそうだが、彼女とその友人が隣の地区の屋外劇場のコンサートを見に行ってしまったので、宣子さんが提案してくれた。 「レイラさんは何時にここに戻れるか分からないし、七緒さんが1人だけで居残って待つなんて気の毒。それよりも、いっそ、メティンの車でご一緒にカドゥキョイまでいかが?」 かくてみんなで七緒さんの重たい4つの荷物を手分けして持ち、あれこれお喋りしながら入り口のそばにある遠い遠い駐車場までぞろぞろ歩いて運び、宣子さんとアイシェ先生と私が後部座席でぎゅう詰めになりながらカドゥキョイまで連れて来て貰ったのだった。夫妻はそのあと親戚の家に行くとのことで、波止場で別れた。 帰りは民営のモトールと呼ばれる中型のカラキョイ行き連絡船に乗ったが、カラキョイでアイシェさんがよく来ると言う若者向けのカフェに3人で入り、6時半頃から2時間余り、このところ会えなかったアイシェさんと七緒さんがすっかり弾丸トークモードになり、幸せそうだったので、終わりよければすべてよし、ということわざ通りになったと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017年04月16日 10時48分45秒
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