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カテゴリ:トルコと日本と世界の出来事
【5月19日・金曜日】 オンドクズ・マユスというのは、トルコ語で5月19日のことなのだが、第一次世界大戦に負けを喫し、オスマン朝時代末期に保身に走る皇帝達によって、郷土が分割され欧州列強に売りわたされることになったオスマン帝国政府から、占領国の状況を調べる目的で監察官に任命されたムスタファ・ケマル将軍が、4日前の1919年5月15日に、蒸気船バンドゥルマ号でイスタンブールを出航、黒海へと向かい、19日にサムスンに上陸した記念日である。 ムスタファ・ケマル将軍はまだこの時点では反乱を起こすことを決意していたわけではなく、各地の占領軍に対する抵抗運動がいかにも脆弱な実態を見て、自ら抵抗運動の主導権を握る決意を固めた後、陸路アマスィヤに移動、そこで帝国全土の若者達の決起を促す有名な「アマスィヤ回文」を起草する。 その後シワスに移動、ここでは長期間とどまり、9月4日にシワス国民会議を招集し、トルコ救国戦争の端緒を開いたのだった。 サムスン県民の多くは、1919年のオンドクズ・マユスに、ムスタファ・ケマル将軍がバンドゥルマ号で上陸したことこそ、革命を起こす決意の第一歩を印した、と誇らしく思っているに違いないが、すべての出来ごとが一つ一つのプロセスなので、英雄アタテュルクにさえ、偉業を成し遂げるためにやらざるを得なかった戦争時の殺りくなどの命令も下している筈である。結果論としてもマイナスの話題や、イメージがないわけでもない。 15年前に単独政権を樹立し、それ以来向かうところ敵なしの勢いのAKP(公正発展党、総裁=タイイップ・エルドアン大統領)にも、もちろん全く同じことが言える。立場が違えば、時代が違えば、英雄も対立側の意向で、極悪人にすらされてしまうこともあるのだ。 だが、国民の総数のほんの僅かなパーセンテージで上回っているだけにしても、過半数は過半数なので、国民の総意ではなく半分の意思でこの国が動かされていることは確かである。 そして、かつて世界一の英雄と言われたアタテュルク初代大統領の面影が、少しずつ消されつつあることも残念ながらただいま実際に進行中の現象なのである。 今年のオンドクズ・マユスは、アンカラでも、イスタンブールでも、当のサムスンでもなぜか賑やかなお祭りにはならなかった。 Ataturk'u anma Genclik ve Spor Bayrami アタテュルクを偲ぶ青年とスポーツの祭典 おめでとう え、アタテュルク廟に参拝の人、これだけ? いつも来ていた軍隊はどこに行ったの? そして、驚いたことに、今学期いっぱいでイスタンブールのドルマバフチェ宮殿の、小中学生の校外学習での見学が禁止されることになったという。理由は、大理石の階段の幅が高く、転んで怪我をするといけないから、というのだそうだ。 昔のトルコ人達だって、そうそう足の長い人ばかりではなかったはずだが、どういうわけか古い建物は一段の高さが高すぎる。人間工学は余り考えられていなかったのだろう。 しかし、本当の理由は子供達を怪我から守る、ということではなく、アタテュルクを英雄の座から少しずつ遠ざけるため、とか、子供達に1938年11月10日の朝9時5分に、アタテュルクが永眠した寝室を、表敬訪問させることは不要だと言う考え方の表れではないか、と思われる。 それに、国中から、アタテュルクなになにと命名された道路、橋、建物、公園、集会所、などが次第に名称変更されて、すでに消えているところもたくさんある。今、トルコの会社の社長室、会議室、などに飾られた大きな額入り肖像画なども、これから次第に姿を消すことになるかもしれない。時代の趨勢とはいえ、さびしいことである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017年06月01日 01時21分27秒
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