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madamkaseのトルコ行進曲

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 marnon1104@ お久し振りです (。≧ω≦)ノ!! kaseさんのお誕生日だったのですね。 お元…
 marnon1104@ Re:トルコでシュウマイはいかがですか?(07/08) kaseさん、こんにちは(*'▽')♪ …
 madamkase@ Re[1]:渡航記念日(03/16) 高見由紀さんへ こんにちわ、イスタンブ…
 madamkase@ Re:渡航記念日(03/16) marnon1104さん、こんにちわ。 3月に書い…
 madamkase@ Re:トルコでシュウマイはいかがですか?(07/08) ひなのさん、おひさしぶりです。 トルコは…

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2017年12月08日
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【12月8日・金曜日】

 今日もまた上天気、大平原のコンヤ盆地で、ただ一ヵ所、お盆の縁のように低い山脈の中腹メラム地区の高台にある友人アブデュラーさんの家を出て、坂道を下ります。前日デジカメのチャージに戻って、2度もコンヤの中心地へ往復したので、通勤(?)にもかなり慣れてきました。

 シェビィ・アルースのためにコンヤに来た時は、真っ先にメヴラーナ博物館内の、メヴラーナ廟に参拝することが多いのですが、イスタンブールを出る前日には急ぎの用事を済ませ、猫の世話をしてくれるアフメットさんに使ってもらうために、徹夜で猫のせいでめちゃくちゃだった寝室を整え大掃除、台所と風呂場もざっとではあっても、とりあえず掃除したため実はへとへと状態で6日の午後、イスタンブールを出発しました。

 コンヤに着いてから、アブデュラーさんの家族の皆さんと話が弾み寝たのが夜中の2時、昨日7日は11時過ぎに家を出て、開幕パレード、メフテル・コンサート2回、そしてチャージのため家への往復、また街に戻ってセマー観賞、夜中に帰宅などなどでまたまた就寝が2時頃になりました。今朝はそれでも体内時計が命ずるまま、いつものように6時には目が覚めて、ベッドの上で両脚を1時間以上もマッサージして、何年もさぼっていたエクササイズをたっぷりしたら、どうやらまっすぐに歩けるようになりましたが、今度は全身が余計くたびれてしまいました。

 奥さんが調えてくれた朝食をいただき、坂を下ってバス通りに出ると、運よくすぐにアラアッディンの丘の麓にあるバス・ターミナルまでのバスが来て、コンヤ・カルト(プリペイドカードの乗り物乗車券)も、昨日のうちに充填してあったので何の不安もなく乗り、30分ほどでアラアッディンに着きました。降りるとすぐ後方に、トラムワイのアラアッディン駅が見えます。この駅では2車線が乗り入れており、メヴラーナ博物館の前を通ってアドリエ(裁判所)まで行く路線はプラットフォームの後半に停車します。

 しばしば文中に出るアラアッディンの丘とは、これもメヴラーナ博物館と並んでコンヤのランドマークであり、平らな街の真ん中にいきなり巨大な楕円形の丘があり、おそらく紀元前にこの土地を征服した民族が大平原を見下ろすために築いた人工の丘で、その後ビザンティン帝国を経て、ルーム・セルジューク王朝の大王(スルタン)たちの居城となり、第7代の最強のスルタン、アラアッディン・ケイクバド1世の時代に(在位1220~1237)、丘をぐるりと囲む切り石を積んだ城壁と豪華な居城が完成、現在も残るアラアッディン・ジャーミイも修復・完成された、と伝えられています。当時の城と城壁はなぜかほとんど消滅してしまいましたが、ジャーミイは今も健在で、礼拝堂にはギリシャ・ローマ建築の列柱が数多く使われており、大理石の柱はエンタシスで、柱頭にドーリア式やイオニア式、コリント式などを見ることが出来ます。

 そして現在アラアッディン・ジャーミイの隣にある、八角形の建物は歴代の11人のスルタンの廟となっており、覗くと棺の形をしたサンドカの下に、それぞれのスルタンが眠っているというのですが、世界中の考古学者・歴史学者たちがこの丘を学問的に発掘したいと願い出ているにもかかわらず、トルコの文化観光省が聖地を掘る話には一切耳を貸しません。アナドル(アナトリア)でも、13世紀の終わりごろから君侯国の中からオスマン・ベイを始祖とする新たな勢力が台頭、次なる覇者となったオスマン帝国の歴代スルタンたちも、メヴラーナの息子と愛弟子が残したメヴレヴィーリッキ(メヴレヴィー教団)を手厚く保護、現在に続くメヴラーナの教えを守ってきたのでした。なお、メヴラーナというのは、もとは尊い師と言う意味で学者への敬称でしたが、今は世界で唯一人、聖メヴラーナ・ジェラーレッディン・ルーミイ(ローマの土地ルムに住んでいる人の意味)の敬称となっています。

 かく申す私、メヴラーナの研究者と名乗るのもおこがましく、10年以上経ってもいまだに門前の小僧程度で、しかも習わぬ経は読めませんが、お参りにだけは来ています。7代目のスルタン、アラアッディンはもっと東のラーレンデ(今のコンヤ県の東隣カラマン県)で、その地の領主に手厚く保護されて日に日に名声を高めていた父の学者大メヴラーナと、息子の若きメヴラーナやその一族を、首都であるコンヤに招聘し、現在のメヴラーナ博物館のある、王宮の薔薇の園だった土地を道場の建設地として寄進します。スルタン・アラアッディンの保護のもと、父の大メヴラーナの跡を継いだ青年メヴラーナはその地でアッラーの教え、預言者ムハンマドの教え、人間としての道を人々に説き生涯を閉じました。

 身分の上下も教育のあるなしも、どんな宗教を信じているかも関係なく、「来たれよ、来たれ、あなたが誰であろうとも来たれ。この道場は苦しみではなく希望の道場なり・・・」と唱え、門前に人々は列をなした、と言います。メヴラーナが逝き、やがてセルジューク王朝が滅びてもオスマン朝、共和国となってもその教えは現在に続いているのです。

 髪をコンヤの作家メラハット・ウルクメズ女史にいただいた黒い上品なベールで包み、メヴラーナの22代目の子孫、メヴラーナ財団の副総裁エシン・チェレビ・バイル女史にいただいた緑のメノウのネックレス、アッ君のプレゼントのメヴラーナ指輪、そのほかに今は亡き友人たちの形見や思い出の品を全部身に着けたり、バッグに入れて持ち、廟にお参りしました。清々しい気分で外に出て、自撮りで博物館を背に写真を撮っていた時です。目の前にボルドー色のかっこいいダウン・ジャケットを着た若い衆が右手を私に伸ばして「ヤルドゥム・エデル・ミシニス(私を助けてください)」と言ったのです。耳を疑いました。一人で写真を写しているお婆さんを見たので、「ヤルドゥム・エデイム・ミ(お手伝いしましょうか?)」と言ったのかと思いました。しかし、彼の右手は心持ち指を丸め加減で、何かちょうだいよ、スタイルです。

 「何て言ったの? もう一回言ってみて」
 男はやった~と言わんばかりにトルコ語が通じたからバラ銭でもいいや、何かくれそうだな、とにんまりしながら一歩近づきました。新品の、Mavi印のデニムを穿き、ジャケットと同じ色のドイツの有名なメーカーのスポーツシューズを履いています。
「ちょっと待ちなさい、ここで何をしているの、あなた!」

 私の口から娘がいつも心配する「説教婆さん」の決まり文句が出てしまいました。彼はそれには答えず、私の後ろにいた60歳代位のトルコ婦人にも同じ言葉で右手を差し出すと、その人には「テイゼ、キラ(家賃)があるんで、恵んでください」と言い、まんまと1リラ(33円くらい)をせしめました。そして私の方に向きなおってまた右手を出して、「テイゼ、ビル・ヤルドゥム・オルスン(ちょっとでも助けてよ)」。私は忽ち怖い顔になりました。
「ピカピカの新しいジャケットを着て、流行のズボンと靴を履いて、手には最新の携帯を持って、なんで乞食をしているの、あなた。見ればたくましくてなかなかのハンサムなのに、どうして働こうとしないで、よりによってシェビィ・アルースの日に、メヴラーナ博物館で物乞いをしてるの、恥だと思わないの!」

 そばにいた1リラ恵んだ婦人が慌てて私の手を抑えて「まあまあ」となだめようとしました。若い男は怒るでもなくつまらなそうに離れ、すぐに近くのほかの人に手を差し出しています。その婦人が私に「あなたはどちらから?」と聞き、私は「日本人ですが、イスタンブールに住んでいます。毎年お参りに来ていますよ」と答えました。
 「奥さん、あなたの方が正しいわ、でも私も2年前にあの青年の年ごろの娘を急な病気で亡くして、メヴラーナにお参りして少し気が晴れるように、と思っているところに彼が現れたのね、ついほだされて・・・」 

 私は思わず婦人を抱きしめ、「ご愁傷さまでした。娘さんが天国で暮らしておられますように」とイスラームのお悔やみの言葉を言うと、婦人はもう涙が止まらなくなって、私の手を放そうとしません。メヴラーナ廟で、それこそ袖擦りあうも他生の縁、と仏教の言葉を思い出しながら、その人の娘さんが二十歳を過ぎたばかりで、これから、と言うときに亡くなった話を聞き、婦人の気の済むまで相手をして、Adidas男にムカついていた気分をその人が癒してくれたと思い、心の中で礼を言いながら別れたのでした。さあ、13時半にはポストニシン様と再び会うことになっています。

 実は昨日7日の午後、ポストニシンのファフリ・オズチャクル氏を訪問する約束があったので伺うと、よそで行われている儀式が長引いて終わらず、セマー楽団の団長室にまだ戻っていませんでした。4時20分前に帰って見えたものの、私がメフテル・コンサートの第二会場に4時までに行くことになっているのがわかっていたので、もし明日お時間があればもう一度ご足労をお願いしてもいいですか、と言われました。私も明日出直してきますと約束し、ポストニシン様は運転手のケマリさんを呼び、キュルトゥル・パルク(文化公園)まで私を送らせてくれたのでした。そういうわけで、本日メヴラーナ廟の参拝が終わった後、13時半にファフリさんを再訪したのでした。

 8月6日に長男のミタットさんが結婚式を挙げ、私も早くから招待状を受けていたので前日の飛行機で飛び、一晩ホテルに泊まり翌日の午後、「嫁迎えの儀」とでもいうのか、花嫁の家に、花婿とその一族或いは花婿側の友人達がコンボイ(車列)になって迎えに行く、という大そうな行事にも加わらせて貰ったのでした。ファフリさんの家は代々セマーゼンで、父のメフメットさんも1987年に日本公演に参加したことがある、というお家柄です。

 実は私は2003年にNHKBSのドキュメンタリー番組で、カッパドキアとコンヤを取材し、その折、シェムス・アヌ・ホテルのオーナー、勝新太郎によく似たベキルさんがコンヤの旅行業者協会の会長で、番組のコメンテーターとして、べキルさんの親友の考古学者、ヌレッティン先生を紹介して貰い、そのヌ先生が2004年に、私が見たいと思っていたベイシェヒール湖のほとりにある、クバドアバド宮殿の発掘現場への往復に、友人のタクシー業者アブデュラーさんの車で一緒に案内してくれたことからアブデュラーさんと知り合いました。

 その後彼がキリム問屋のカラヴァン社長アスムさんを紹介してくれたあと、2006年の夏、ファフリさんと知り合った私が、メヴラーナ文化センターで、当時セマーゼン・バシュだったファフリさんを訪問した後、アブデュラーさんのタクシーを呼んだ際、乗り場まで見送りに来てくれたファフリさんに紹介すると、なんとなんと、この二人が子供時代、メヴラーナ博物館の向かい側にある大きな墓地の向こうの旧市街で育った近所同士で、子供時代かくれんぼや鬼ごっこをして遊んだ仲だったのだそうです。

 40年ほど前にコンヤ市役所の都市計画が始まり、旧市街が整地されることになったため、それぞれに別な地区に引っ越して、30年以上も全く音信不通に過ごした旧友同士だったことが判明、2人はその場で「やあやあ、加瀬ハヌムが私たちを再会させてくれましたね」と抱き合って喜びました。目と鼻の先で働きながら、全然出会わなかった、と言うのもすごいですが、殿方はどちらも身長185くらいあろうかという堂々たる恰幅の頼もしい男性たちです。
その後時々旧交を温めるために、ファフリさん一家がアブデュラーさんの両親に会いにきたり、家族ぐるみマンガル(BBQ)をしたり、バイラムなどに昔のように互いに行き来を始めたのだそうです。

 この5人の中年紳士がすべて知り合いで、皆さん揃ってコンヤの文化や商工業に大きな役割を果たしている人々なのでした。コンヤも広いようで狭いものだと思ったものです。
(コンヤはトルコ81県のうち最も広い)

 楽しい1時間半は瞬く間に過ぎ、夕方セマーの準備でポストニシン様もお忙しくなるでしょうから、と私も暇乞いをしました。すると、ファフリさんはメヴラーナ文化センターと、ウチレル墓地の間に新しく建設された「イスラーム文化センター」について説明してくれたので、私はその施設をのぞいてみることにしました。するとまたまたファフリさんは運転手のケマリさんを呼び、私が昨日から動き回っているので、少しでも楽に行けるようにと、彼に送らせてくれたのでした。

 そのイスラーム文化センターには、ファフリさんの新婚の息子ミタットさんと花嫁のアスルさん夫婦が、10月から揃って働いているとのことで、若夫婦にも逢いたいと思っていた私には渡りに船、のようなお話だったのです。ポストニシン様に見送られ、セマー楽団の通用口から、車ならものの5分ともかからない距離なのですが、送って貰えたことは大いに助かりました。ケマリ青年は普段は県の職員として別な部門で働く国家公務員なのですが、シェビィ・アルースの期間中、メヴラーナ文化センターやセマー楽団が非常に忙しいため、応援に来ているとのこと。彼は、アタテュルクの生まれ育ったテッサロニキ(現在はギリシャ領)生まれのお父さんと、コンヤ出身のお母さんがいて、青い目と金髪の色白なところはとてもイスラーム教徒に見えないのですが、話をしているとバリバリのムスリマンであることがわかりました。車内でも、今度またお会いしたときは、由美子ハヌムの宗教観をお聞かせください、などと言うのでした。

 さて、門構えからしてイスラーム模様、それがまた見事に周囲の環境と調和しています。メヴラーナ博物館(メヴラーナ廟)、メヴラーナ文化センター、そしてウチレル墓苑の隣にあるチャナッカレ戦争の殉職者記念会館などが隣り合って一つの地域を構成しているからです。イスラーム文化センターはまだ完全にオープンしてはおらず、出来上がった施設から使い始めている様子、そのためにまだ整然としてはいないのですが、男女の一般職員たちは揃いの丈長な茶色のベストを着て、きびきびと動き回っており、ファフリさんの長男ミタットさんの職掌は来客やグループの案内、インフォメーション、その他事務などのようです。 

 お父さんから事前に連絡があったようで、ミタットさんは同僚に呼ばれるとすぐ私のところに来て、館内をぐるりと案内してくれましたが、セマーゼンですから顔の下半分は濃い口髭と顎鬚に覆われていて、本当は白皙の貴公子顔、ちょっともったいないような気がします。昨年はトルコの国営放送TRT1で、メヴレヴィー教団の創始者、最後の愛弟子フサーメッディン・チェレビを描いたドキュメンタリー映画で、チェレビを演ずるなど多才な活躍をしています。

 この夏8月6日に華燭の典を挙げ、新婦のアスルさんもエブルの腕前を買われてこの文化センターで、トルコの伝統芸術エブルの教室を担当する教師として採用されたとのこと。ミタットさんは「私たちにぴったりの仕事です、どうぞたくさんの方々に見学していただき、いろいろな教室で技術・芸術・音楽などを身に着けていただきたいと思います」とにっこり微笑みながら、それぞれの教室を見せてくれました。

 最後にアスルさんのエブル教室に行くと、額入りの何枚かの作品が後ろに並べてあり、似合いの夫婦が幸せに働いているのを見せて貰い、安心しました。たっぷり時間をかけて案内して貰ったので、外はそろそろ日が傾き、寒そうに見えたので明日にでもまた続きを見せて貰います、と言って暇乞いしました。明日は、コンヤの日本女性が私に会いに来てくれる女子会なので、そのあと、コンヤに住んでいてもまだみんな知らないであろう、この文化センターに案内する気になったのでした。

 私は少し歩いてドルムシュ(乗り合いマイクロバス)の通り道で待ち、メラムの丘の裾にあるアブデュラーさんの家に早めに帰ることにしました。朝、家を出る前に今日は晩御飯を家でご馳走になります、と約束してあったのです。いい具合に私の行きたい路線のドルムシュがほどなくやってきました。西空の夕焼けを見ながら家に帰るのは素敵です。家ではアブデュラーさんの奥さんやお姉さん方が腕を振るってご飯の支度をしてくれていることでしょう。










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Last updated  2018年01月31日 22時03分03秒
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