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カテゴリ:ヘテロソフィア・アート
きのこは虚であると同時に実である。僕の考えはこれに極まる。 仏教では諸法は実相であるか、あるいは諸法は空(空性)であるかを過去数千年に亘って問題にしてきた。この世界は実在するのか、あるいは幻影にすぎないのか。これが人類にとっての永遠の問いなのである。仏教は黎明期よりこのことに最大の関心をはらってきたのだ。この問いかけを僕にストレートに投げかけてきたもの、それがきのこだった。 日本の仏教徒ももちろんこの虚実の問題に終始してきた。この世界のすべてのものに仏性はあるだから実在する。いや、この現象世界は実は僕たちの頭の中でこねあげた幻影にすぎない。この虚実の葛藤の中からそれそれの信じる道を見出してきた。即身成仏、大乗戒壇の創設、太子信仰の普及、専修念仏、只管打座、法華経への絶対帰依、あるいは屁のように生きる、などなど。 そして、本当はこの現実世界が空っぽか実在するかは実はどうでもよいことで、そのどちらも正しいし正しくないかもしれない。きのこは出会うたびにそんなことを鼻唄まじりで唄ってきたので、僕にとってぬきさしならぬ関係ができてしまったのだ。ようやく、そんなことが普通に話せる時代がやってきたと思っている。もちろん極く一部の人たちの間だけではあるが。きのこの文化普及のための25年なんて微々たるもの。二百年、三百年かけて試行錯誤しつつ発酵させていくものだろう。だが、少しずつ面白い展開がはじまっている。 今述べてきた「この人生、生きるにあたいするや否や」につながるもっとも切実なテーマこそがきのこの魅力のすべてである。 僕は今「鬼(き)の子伝」についてひそかにメモ書きを始めている。写真の不思議、神道の問題、最澄、空海にはじまり、聖(ひじり)たちの仏教の活動など、古代史の中の秦氏、物部氏よりはじめて思いつくままに筆をすすめている。 これはきのこが人間にもっとも近い生きものモデルであることから発想したもので、もちろん、ここでもこの世界が実在するか、幻影にすぎないのかを問題にしている。 「風立ちぬ。いざ○○○。」このいざ○○○、に該当する言葉と行為。あなたならどうする。それに答えるのにもっともふさわしい形式、それがアートだと思ってきた。 虚実のあわいを虚構で再構築する。これはアートという手法でしか実現不可能なことだ。 いずれ、僕の「鬼の子伝」もみなさまの目に触れる時も来るかと思う。どうぞ、野山できのこと親しんでいる人たちは、それぞれに今一度、きのこと向き合いお考えいただきたいと思う。特にかっての「夢・自然・きのこの祭」の賛同者の方たち、「MOOKきのこ」執筆同人の方たちにはきのこをそれぞれの頭の中でもう一度白紙に戻して直観してほしい。是非お願いする。 東日本大震災のあと「きのこどころではない」という声をきのこ屋さん自身の口からしばしば聞いてきた。もしそうであればその人はきのことの向き合い方が足りないのだ。 僕にとっては、学問的にも現実的にもきのこそのものへの関心が薄らいできた今、これからがきのこの本当の時代、ぼくらの時代のはじまりだと感じている。 写真は本年、最も感動した映画『トリ―・オブ・ライフ』の1シーン。ショーン・ペーンの背後の岩峰は、氷河が彫刻したと思われる自然の造形のきのこモニュメントである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年10月28日 22時31分07秒
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