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夢みるきのこ

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2011年11月02日
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  きのこライター堀博美さんの企画によるきのこ展が京都木屋町の元・立誠小学校で開催されると聞き駈けつけてきた。この小学校、以前からのぞいてみたかった処で会場をのぞくだけでも大満足だったが、MOOKきのこ執筆同人に加えて、とよ田キノ子・ナカガワ暢・濱名愛子・亘敏治とニューウェーブきのこ作家が出展しており、なかなか楽しい催しであった。
 きのこアートはケルティックアート同様、無限増殖がひとつのキ―・ワードだが、城戸さんの作品『菌類図鑑』にその気づきがみられたほか、オガサワラミチさんの作品『きのこ枠』にもおそらく展示の仕方からして作家自身は全くの無自覚だが、きのこはフレームに過ぎないとの本質がとらえられていた。
 今、「きのこの時代」との声がしばしば聞かれるが、僕にはどうもそんな気がまだ感じられない。何故なら僕たちがやってきたことはきのこの本質であるヘテロソフィア・アートの潮流づくりだったのだが、そんな流れを自覚する人たちがきのこ採集家の業界にも、きのこアーティストたちの業界にもましてやきのこのアカデミイの業界にもまったく見あたらないからだ。
 
 きのこに代表される絶対少数派の文化というものは個々人が歯ぎしりしながらボソボソやるものではなく、もっと地球をひっくり返すほどの発想の転換を持った人たちが星雲の明滅のような愁波のごとき交信を続け、妥協なき共闘を誓い、淡い連帯を果たす中で、しかし、確固としたコンセプチュアルなテーマを掘り下げていくものでなくてはならない。まずはヘテロアートの流れを想定し、自身をその流れに添わせる形で自覚的に創作活動を続けることが求められる。トレンドなくして画商の評価の外で自己表現に明け暮れる少数派の芸術家に明日はない。私が日本キノコ協会をつくったのもそのためである。多少なりとも少数派世界で格闘してきた人たちからは「半世紀早い」とよく言われたものだった。しかし、すでに四半世紀が過ぎた。大向うの無理解をものともせず、きのこの時代に半歩近づけ得たのだ。そのことは自負してもよろしい。前代未聞のアートの世界潮流となったシュール・レアリズム時代の検証を果たす中で、私たちの目の黒いうちに、これから後の四半世紀の準備を手ぬかりなくやりとげなくてはならない。

 僕がきたるべききのこブームに先駆けて「世界のきのこ切手展」を1980年代後半にわが国ではじめて集大成し開催したとき、その案内に「きのこのような日陰の存在が脚光を浴びること自体、時代の不幸を表わしている」と書いたが、それからすでに20余年を経た今、ようやくその言葉が輝きを放ち始めている。
そんな不幸な時代が、今まさに現実のものとなってきたところだからだ。
 きのこの分類の世界も私たちが25年以上も昔に予言したように分子生物学の流れの中で根こそぎ改変させられつつあり、きのこアートの世界も単にきのこをなぞるだけのものから一歩も脱却しえていないのになぜきのこの時代と言えるのか訳がわからない。

 ただ、飯沢耕太郎氏、堀博美氏ら少数の作家たちによってきのこのこれまでに得られたありとあらゆる情報が集大成され、「きのこの時代」への足がかりがようやく出来上がったと僕は感じており、きのこをライフワークとしてきた人たちの努力次第できのこの時代を招来させることができるまでになったことは事実だ。これからが正念場なのだ。
 このことは、まさに虚の世界、想像力の世界を自然状態で視覚化して見せてきたアーティストたちがきのこの真実を語る時代に入ってきたことを意味している。
だから現代は、この時代の波をうまくとらえ得る表現者の出現が待たれるばかりとなったところなのだ。

 今夕、京都の展示会場へ終了間際に駈けつけて、そのあと夜の賀茂川界隈から新京極、寺町あたりを散策しながら、いよいよ我らの時代がやってきたことを実感した。

 さて、どう暴れるか。この冬至までにじっくりと考えてみたい。

 写真はきのこる表紙のきのこが増殖しはじめた相をとらえた城戸みゆき作品。

 





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最終更新日  2011年11月03日 12時25分07秒
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