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カテゴリ:きのこ目の日本史
王龍寺は結界のすべてが遠目にも若みどりのシイ林が繁る昼なお暗い寺院で、現在は黄檗禅院となっているが、山容は一見して原始山林修行者の磐座(いわくら)で、山門をくぐるとそこはわが目を疑うほどの全くの異空間がひろがり古代より連綿と続く累々とした霊地であったことが理解できる。
左に滝垢離の行場を横目にしみじみと縄文以来の森の巒気を吸いこみながら参道をのぼると本堂が見えてくる。錠のかかった門扉の隙間よりのぞくと堂奥には岩仏を刻んだと思われる巨岩がほの見える。数名の寺詣りの人たちが去ったところで駄目もとで寺主に拝観をお願いすると、ごく当たり前のように鍵を開けて「どうぞ、ごゆっくり」との返事。うれしくなっていつになく合掌したりしながらじっくりと体面した。縦5m、横4mほどの花崗岩の巨岩には、なんと石仏の十一面観音と不動明王が刻まれているではないか。石仏の十一面観音は僕にとってははじめての出会いで、元来この磨崖仏は露座仏であったが、後に雨水から像を保護するために堂を作ったと云われる。
本堂とその偏額
本堂の内部と堂奥の建武3(1336)年の銘のある石仏がきざまれた巨岩 また本堂には、黄檗宗となってからのバラモン僧をおもわせる地神の群像がところせましと並べられており、その中でも図像的に面白い以下のものを撮影してきた。
如来蔵を思わせる禅僧 龍蛇に似たものをもつ禅僧
本堂裏の磐座と思しき巨岩(左) この牧歌的な風景(右)が山門をくぐったとたんに異世界へとスリップするさまは快感に近いものがあった。 本堂裏はこのような磐座となっており、神仏習合の歴史いちじるしい社叢の森だ。本堂脇から奥にまわると登美神社の小祠も残り、この土地が登美族にとっても重要拠点であったことが偲ばれる。 十一面観音は、新羅仏教の地蔵的存在であったと同時に、聖徳太子や物部につらなる登美族の族長クラスの念持仏であったのかもしれない。 この生駒東麓の富雄川、はたまた生駒川から龍田川へと名を変えながら大和西域を流れる川筋を訪ねあるく旅を重ねてきて、そんな風な想いが強くなってきた。
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最終更新日
2013年05月19日 21時31分32秒
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