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カテゴリ:ヘテロソフィア・アート
アトリエUKITA導入部 象牙の谷・・・。年老いた巨象が単独で群れを離れて人生の最後に訪れる彼らの墓場となる谷である。幼少の頃、カバヤ文庫の「少年ケニア」などのアフリカもので妙に生々しく覚えている象の墓場。浮田要三オープニングギャラリーを訪問したとき、ふとこんな言葉がしきりに心の中で浮沈していた。 生前浮田さんとはお出会いすることはなかった。夜の顔の猿澤恵子さんの最も影響をうけた先生だと聞いていてギャラリー島田でも個展が開かれたが、機会を逃してしまった。今回も不慮の出来事のために機会を逸するところであったが、Aさんのお蔭で、Sさん、M君を伴い会期終了寸前に滑りこむことができた。 その大阪市東成区大今里南2丁目5-6のアトリエUKITAの扉をくぐった瞬間そう思ったのだ。まさに象牙の累積する谷間に踏み込んだような印象だった。門下生たちが要三さんの意思を継いで健闘していて清々しいものを感じたが、やはり取り返しのつかないような喪失感が漂っていた。 1924年生まれの氏は、戦後まもなくの1948年より、子供の詩と絵の雑誌「きりん」の編集にたずさわりそれが縁で前衛画家の吉原治良と出会い、具体美術協会で活躍することになる。 この作家のアート開眼は、デュッセルドルフのグループ展に参加し、4人のドイツの画学生と2週間暮らした御歳60の時と言うからすごいエネルギーの持主であったことがそれとなく伝わってくる。 M君は猿澤さんのアトリエで「きりん」誌のバックナンバーを手にしていてその感動を語ってくれた。 「不易流行」の不易(=ベーシック)の世界がどんどん卑小化し色褪せていく21世紀、それは命というもののかけがえのなさにどんどん不感症となっていく地球人の精神の荒廃と軌を一にしていると思えてならないが、僕は今を生きる人間の問題としてアートを捉えかえしていかなければならないと感じている。 浮田さんと僕のおつきあいは象牙の谷からはじまったが、それは石でも玉でもない新しい何かだと僕には思えてならない。
オープンギャラリーリーフレット 生前の浮田要三さん
会場点景 要三作品と門下生の作品が米穀倉庫跡のひろい空間に処せましと並んでいた
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最終更新日
2013年08月09日 22時49分42秒
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